2017年5月23日火曜日

礼拝メッセージ  2017年 5月 21
説教題  「祝福の始まり
聖  書  ルツ記 1章15〜18節
序論ききんのためにユダのベツレヘムを離れ、モアブにとどまっていたナオミは、夫と二人の息子を失います。主がご自分の民にパンを下さったと聞き、ユダの地に戻ろうとしたナオミは、ふたりの嫁に実家に帰るように言います。ふたりの嫁のうちオルパはモアブの実家に帰り、ルツはナオミについて行きます。
本論エリメレクの家庭は、ベツレヘムにききんが来て生活が苦しくなると、約束の地カナンを離れ、異邦の地モアブに移住します。しかし神様は、彼らがカナンを離れることを喜ばれませんでした。それは、神様から与えられた相続地を守らなければならないという命令に反することだったからです。このような不信仰な態度のゆえに、彼らの家族は大変な苦しみに会います。
1.信仰の道を選ぶ時、永遠の祝福が臨みます1617節)ルツは、何の希望もないように見える しゅうとめ について行くという選択をします。ルツのこの決断は、単なる孝行心ではなく、神様への信仰告白であり、全き献身の現れです。自分の幸せよりも、しゅうとめについて行くことを選んだルツの決断は、愚かなように見えましたが、後にダビデとイエス様の先祖となるという、素晴らしい恵みの始まりとなりました。
2.自分の弱さを告白するとき、回復の恵みが臨みます1921節)有力な出であったナオミがベツレヘムに帰ると、町の女たちは「これはナオミですか」と言います。これはナオミの境遇に対しての同情と嘲弄(ちょうろう)の混じった表現です。
ナオミ「楽しみ」と呼ばずマラ「苦しみ」と呼んで下さい。と自分の過ちと境遇を素直に認めました。神様は、ご自分の御心と救いを成し遂げるために、時に私達の人生の器を空にされることもあります。
結論どんな悲惨な状況であっても、神様に立ち返れば生きる道が開かれます
41317節)ナオミは、家を受け継ぐ孫を得て大きな喜びに満たされます。ルツは、(マタイ126節)異邦人ながらダビデ王の先祖となりメシアの系図に書き記されました。いつでも、何歳になっても、立ち返ればそこから祝福が始まります。

2017年5月14日日曜日

礼拝メッセージ  2017年 5月 14
説教題  「神様にチャンネルを
聖  書  詩篇 1篇1〜6節
序論聖徒は、主の言葉を聞いてそれに従う時、意味のある幸せな人生を送ることが出来ます。詩篇1篇で言う「幸いな」人は、まさにそのような人です。
本論正しい者の幸いな人生(1〜3) 幸いな人生となるためには、悪者との関係を断ち、主の言葉と一つになって生きなければなりません。悪者との関係を断つためには、彼らの価値観を追い求めず、彼らの生き方にならわず、彼らの共同体に属さないようにしなければなりません。(1節)。それは、主の言葉と一つになるために必要な決断です。そして、水路のそばに植わった木のように、時が来ると人生の実を結び、世でも勝利する強い生命力を持つようになります。このような人生こそ、主の御目に幸いな人生であり、神が私たちに、与えようとしておられる真の幸いです。
 悪者の無益な人生(4〜6) 正しい者の人生は、意味があり幸せですが、悪者の人生は、無意味で不幸せです。正しい者と悪者の人生を区別するのは、主の言葉とどんな関係を結んでいるかということです。み言葉には、悪者の道へと流れる人生を、方向転換する力があります。詩篇の著者は、そのようにして人生が変えられた人は「栄える」と言っています。しかし、み言葉を、ないがしろにし、従おうとしない悪者が結ぶ実は「さばき」です。また、悪者の人生は、方向性や目的もなく、風が吹くままに飛ばされるもみ殻のようにさまよい、生きている間にも裁きを受け、人生を終えた後にも正しい者の集いに入ることが出来ません。悪者は神様から認められず、神様から顔を背けられます。そのような者の人生は、永遠に不幸なもの となります。
結論幸いな人は、み言葉の光に導かれます。日常の小さな問題に対しても「主のおしえ」に従って決断します。み言葉に照らし合わせて取捨選択し、行動するのです。何よりも神の言葉が権威を持ち、自分の言葉と行動を従わせる力を持っている人生が、幸いなのです。