2016年12月25日日曜日

礼拝メッセージ  2016年 12月 25
説教題  「救い主の誕生」
聖  書  ルカによる福音書 2章11,12
(序論)キリストが誕生された。という、うれしい知らせは、博士や祭司あるいは権力を持つユダヤの総督に、先に知らされたのではありませんでした。わざわざ、名もない羊飼いに伝えられたのは、なぜでしょうか。
(本論)まず第一に、イエス・キリストこそが、まさに私達の羊飼いだからです。イエス様は、私達の良き羊飼いです。ヨハネ10章11節に「私は、良い牧者です。良い牧者は羊のために、命を捨てます」とある通りです。
 イエス様の知らせが伝えられた時、羊飼いたちは夜中であったにもかかわらず、羊の間で、羊たちを守っていました。このように、私たちの羊飼いとして来られたイエス・キリストは、私たちを離れないで守ってくださいます。それだけでなく、罪を犯し呪われ悪魔に引き裂かれる私たちを救うため十字架を負われました。
 第二に、羊飼いに伝えられた理由は、ヨハネ10章2、3節「門からはいる者は、その羊の牧者です。羊はその声を聞き分けます。彼は自分の羊をその名で呼んで連れ出します。」このみ言葉は、イエス様が羊を群れを導くとは言っていません。各々の名前を呼んで導くと言われていることです。私たちの名前を一人ずつ記憶して呼び、その境遇に従って導かれます。
(結論)最後の理由は、「羊飼いは羊を飼う」ということを表すためです。詩篇23篇12「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。」とあります。羊飼いは、ただ羊と共にいたり、歩き回ったりするだけのためにいるのではありません。必ず羊を飼う目的があります。それは、「羊が命を得、それを豊かに得させること」です。ここに、天使が主の降誕を最初に知らせた理由があるのです。





2016年12月19日月曜日

礼拝メッセージ  2016年 12月 18
説教題  「力ある神」
聖  書  イザヤ書 9章6,7
(序論)新改訳聖書では、イエス・キリストが「力ある神」であると書かれています。別の訳では、「はかりごとを、なさるお方」の意味で、それは「人のために知恵を出す人」のことです。難しい問題に直面して、どうしたら良いか分からない時に、第三者が当事者のために、知恵を絞りだして問題の答えを与える人のことです。イエス様は、まさにこのようなお方だと言うことです。
(本論)ニコデモは、ユダヤ人の指導者であり、律法を遵守する人でしたが、救いの道理がよくわからず、非常に苦しんでいました。ある晩、イエス様を訪ねて来て、彼の悩みを吐き出しました。また、サマリヤの女が夫を五回も替え、六人目の男と暮らしていましたが、彼女も、人生の目的と方向が分からず、絶望に陥っていました。イエス様は、この女性のためにも「はかりごとをなさる方」になられて、心の渇きを解消し、新生の生きた水を飲ませて、人生の意味を見つけるように導かれました。
「はかりごとをなされる方」であるイエス様から知恵をいただいたのは、この二人だけではありません。イエス様の弟子たちは、当時、疎外され蔑視された取税人や漁師たちでした。教育も正しく受けられなかった人々でしたが、イエス様は三年半の間、彼らを教え、学びさとらせてくださり、復活後には聖霊を受けさせました。それから三百年が過ぎた時に、ローマ帝国がキリスト教国家に変わるとう奇跡が起こりました。このイエス様は、今日の私たちにも「はかりごとをなさる方」になってくださいます。
(結論)どうしたら「はかりごとをなさる方」を見つけ出会うことができるでしょうか。それは、聖書六十六巻で見つけ、主にお会いできるのです。聖書からキリストの驚く知恵と賜物を受け、問題の解答を得て勝利者になれます。ですから、あなたがどんな環境や境地にあっても主の前に出て祈る時、知恵を下さいます。そして、主にある者にとって万事が益となるように、マイナスはプラスに変えられます。



2016年12月11日日曜日

礼拝メッセージ  2016年 12月 11
説教題  「天使たちの讃美」
聖  書  ルカによる福音書 2章14
(序論)イエス・キリストの誕生は、天と地に関わる、二つの意味を持っています。まず、いと高き所では神の栄光がある、と言われました。イエス様が、肉の身体を持って低く、卑しい家畜小屋で産まれた事件が、なぜ神様の栄光になるのでしょうか。私たちは、この答えをルカ19章38節で見ることが出来ます。「祝福あれ。主の御名によって来られる王に。天には平和。栄光は、いと高き所に。」
(本論)これはイエス様が、十字架につけられて死なれるために、ロバに乗ってエルサレムに入場されたとき、人々が主の通られる道に上着を敷いて歌った賛美です。イエス様の死が、神の栄光になったのです。神様はイエス様の死によって、ご自分の民を回復されたため、栄光になるのです。
 ですから、イエス様がこの世に誕生された目的は、私たちのために身体を裂かれ、血を流すためであり、そして神の栄光を明らかに現わされたのです。イエス様は、このように苦難を受けて、ご自分の栄光、すなわち神の栄光に入らなければならない。と言われました。
 第二に、聖誕は平和の知らせです。しかし、全ての人類に平和が、とは言われませんでした。御心にかなう人々、すなわち神の恵みを帯びた人々に平和があるように、と言われました。イエス・キリストを信じ悔い改め、救い主を受け入れ、主の血潮で洗われ聖霊により新たに神の子になった人々に、主の平和を約束されたのです。それ以外の人々にはかえって争いを約束されました。「あなたは一生、苦しんで地から食物を取る。地はあなたに、いばらとあざみとを生じ、あなたは顔に汗してパンを食べ、ついに土に帰る」(創世記3:17〜19)
(結論)みこころにかなった人々に、神の天使が神にある平和を宣言します。外的環境が争いに巻き込まれていくようであっても、それは虚像にすぎません。万事を益とされる神が背後におられるからです。この平和は、私たちの霊魂に宿ります。主の平和をたっぷりと味わうことを、願っておられます。



2016年12月5日月曜日

礼拝メッセージ  2016年 12月 4
説教題  「福音のために苦を共に」
聖  書  テモテへの第二の手紙 1章7,8
(序論)使徒パウロは、テモテが救い主を伝えるメッセージを、恥とするような誘惑を受けている、のではないか心配して、テモテを心配して、テモテを励ますために、この書を書いています。
(本論)またパウロは、主のしもべであるパウロ自身のことを恥とするような、誘惑に会っているのではないか、と案じています。
 パウロが伝道者として、成功していた時には、テモテはパウロの友、しかも本当に親しい友として、見てもらえることを誇りに思っていました。
 しかし、今やパウロは囚人であり、社会的汚名を着た男なのです。テモテは、今ではパウロの友であったことを、恥ずかしく思っているのでしょうか。キリスト者は、主イエス様のしもべであることを、恥じるように誘惑されることがあります。福音を恥とすることは、パウロの時代にもあったように、今日でもこれは存在しています。多くの人々が福音について不快に思ったり、つまずきとしているからです。それは、聖書が伝えるメッセージに対してです。聖書は、罪を宣告し刑罰を告げます。人は、それを受け入れたくないので、人は憤慨するのです。それに、聖書は無条件の服従を求めます。こういうことが、人々に敵対する心を生み出すのです。
 パウロは、テモテに、彼自身もそれを経験したことを、思い起こさせようとしています。事実、パウロは、この福音のゆえに、ユダヤ教徒の敵対心のゆえに、今、投獄されているのです。それでもパウロは、「私は福音を恥としない」と語ります。テモテにも「テモテよ。恥じてはいけません」
と励ましています。
(結論)私たちも、時として主を、福音を恥じるように誘惑されていないでしょうか。パウロのテモテへの言葉は、私たちに対する神のみ言葉でもあります。「恥じてはいけません」。8節に「むしろ、神の力に支えられて福音のために、私と苦しみを共にして欲しい」と聖書は語ります。
 

2016年11月27日日曜日

礼拝メッセージ  2016年 11月 27
説教題  「神の栄光のための試練」
聖  書  ヨハネによる福音書 9章1〜11
(序論)当時のユダヤ人は、人の受ける苦しみ災いは、罪の結果であると信じていました。弟子たちは、この目の見えない人について「この人が生まれつき目が見えないのは、誰が罪を犯したためですか。本人ですか。それともその両親ですか。」と主に尋ねました。
(本論) しかし主は、「本人の罪ではなく、両親の罪でもない。ただ、神の栄光の現れる機会となるためである」と言われました。人への災い病気がこの世に入って来たのは、大きく言えば人類が罪に陥った結果ですが、災いがいつでも、その人の罪の結果であるとはかぎりません。災いに遭った時私たちは、神様のみ前に自分を省みることは必要です。しかし、他の人が「罪の結果である」と断定して人をさばいてはいけません。この世には、神の国の法則と自然界の法則があり、それを無視するとしっぺ返しを受けます。「与えなさい。そうすれば与えられます。」与えないで受けることばかり考えても神の国の法則から、得ることは出来ません。また、無謀運転、暴飲暴 食すれば、自然界の法則により災い 、病気という実を刈り取ることになります。しかし、病気はどんなに気をつけても神様の深い摂理により、また、ご計画のうちにもあり、後に益にするために与えられる場合があります。(ローマ人への手紙8:28) 災いに会っている人に対して冷たい態度でなく愛をもって接し神様の恩寵を祈らなければなりません。主はこの人の目に泥を塗り「シロアムの池に行って洗いなさい」と言われました。彼に対する信仰と服従の試験でした。そして癒されました。
(結論)この目が見えなかった人は、癒された恵みをあかしすることを、ためらいませんでした。両親と違い。「私は今まで目が見えなかったのに、今は見えるのです。…きっと神様が遣わした預言者です」 17、25節、リビングバイブル訳) 私たちは先入観を持たず、へりくだった心で神のみわざを見、神の言葉を聞きたいものです。




2016年11月20日日曜日

礼拝メッセージ  2016年 11月 20
説教題  「上に成長するために」
聖  書  詩篇 92篇 12〜15
(序論)「神様を信じて従う人は、なつめやしの木のように青々と茂り、レバノン杉のようにそびえ立ちます」(リビングバイブル訳)すべての木には上に伸びる部分と下に伸びる部分とがあります。すなわち、木には目に見える部分と、見えない部分とがある、ということです。そして、隠れている部分こそ、見える部分の成長のかぎです。
 
(本論)地中に伸びる隠れた部分は、隠れた供給源から栄養を得ると同様に、主のみ言葉によって、毎日主との静思の時を確保しないならば、主イエス様の恵みと知識に成長することは不可能です。
 「枯れたキリスト者になってしまう根本的問題は何ですか」と問われたら私は答える「毎日、祈りによって神様と交わりの時間を持つ時間を怠ることです」と、ジョージ・B・ダンカンは、言っています。日々の神様との交わりが無ければ、キリスト者は枯れてしまいます。ジョン・ウェスレーや榎本保朗先生などが、同じ決心をしています。その決心とは、「毎日の最初の時間を神様に捧げる」といううことです。必ずしも最初の時間としなくても良いのですが、とにかく最善の時間でなければならないことは確かです。
 
(結論)こうして神様との交わりの時間を持ち、信仰の木が下に伸びて行くなら、上に伸びる部分については、あまり気にしなくてもいいのです。下に成長するとともに上にも成長するからです。レバノン杉のように上に高い木が倒れないのは、下に根をしっかりと張っているからです。 
 「神様みずから世話をしてくださいます。おかげで老木となっても実を結び、青々と茂ることができるのです。そして、そのことが神様の栄誉となり、その真実を人々に知らせることになります」(リビングバイブル訳)

2016年11月13日日曜日

礼拝メッセージ  2016年 11月 13
説教題  「あなたらしく生きなさい」
聖  書  イザヤ書 64章8
(序論)私は、私らしくあるがままの自分で、生きられたら何と楽なことでしょうか。私たちは偉人伝など、素晴らしい人生を生きた人の書物を読んで感動します。私もそのような立派な人になりたいと、自然な願いが起ります。
(本論)ところが、そのうちに苦しくなって来ます。その素晴らしい方と自分とは、あまりにかけ離れているように感じてくるからです。「自分は何とつまらない人間なんだ。どんなに逆立ちしても、あの人のようにはなれない。たいした人生は送れるはずがない。」そして、心が暗くなります。何がいけないのでしょうか。幾つかの理由があります。
 第一に、その人は、神様は人を皆、違うように造られたという事を忘れているという事です。男女の違い、生い立ち、能力、性格の違いなど一人として同じ人はいません。努力すれば何でも出来る、というのはある程度までです。だから、無いものを求めても苦しいばかりです。いつも人と比べて、優越感と劣等感の間を行ったり来たりすることになります。
 第二に、その人は、自分の願いを中心にすえてしまった、ということです。私たちには、神様という造り主がおられ、一人一人は、神様の目的にそって皆、違って造られた、と聖書は語ります。(64:8節)(45:9節)
ですから、造り主である神様を無視して、いくら願ってもそれは難しいのです。
(結論)最終的に神様から聞く言葉、「あなたはあなたらしく、あなたを生きなさい」という励ましです。たとえ自分の気に入らない私であっても、そのように受け入れることです。病弱な体や自分の性格、またいろんな理由で苦労を強いられている人生かもしれません。しかし、願っても得られないものに翻弄されず、自分を必要以上に見下げず、あるがままのあなたで生き生きと、強く美しい人生を生きて行きましょう。




2016年11月6日日曜日

礼拝メッセージ  2016年 11月 6
説教題  「試練は脱出への道」
聖  書  コリント人への第一の手紙 10章13
(序論)使徒パウロほど、救霊の情熱に燃えた人物はいません。見知らぬ町に入れば、少女から悪霊を追い出し、天幕作りの生活に入れば同業の夫婦をキリストの戦士に生まれ変わらせ、牢獄では看守一家を救い出し、権力者の前に引き立てられれば、彼らをどんどんクリスチャンにしてしまいました。このパウロが、人生には試練があるが、神は脱出の道も備えられると語ります。
(本論)まずパウロは第一に、多くの困難は別に新しいものでも、特別なものでもなく、これまで多くの人々が先に、同じ問題にぶつっかて来たものである、と語ります。自分だけが何故こんな困難が…と考えがちですが、病気・死・人間関係・夫婦問題・死別・貧しさ・人種差別・戦争・裏切り・結婚・子育て・寂しさ・容姿美貌の差・知能・生まれ育ち・性別など、二千年以上前から同じ問題で、誰かが苦しみ悩み経験しているものです。
 そして第二に、「試練とともに、脱出の道が備えられている」と語ります。
神様の愛とご真実が、私たちを苦しみの中に放って置くことが出来ず、必ず脱出の道も備えて下さるという約束です。大きなのように見えているものが、もしかしたらなのかも知れません。仕事や結婚などで壁を感じる時があります。八方ふさがり、心は暗い谷間をさ迷ってどんどん落ち込んで行きます。壁だと思っていた分厚い鉄板に、実は取っ手が付いていて、押せば何と、ぎいっ〜と開き光が差し込んで来るのです。壁と思っていたのが扉だったわけで、両者は同じ板でした。
(結論)この事は、何か別のところに脱出の道が備えられたのではなく「試練そのものが脱出への道」だったという事、問題が取り除かれて救われたのではなく、困難をしっかりと受け止める姿勢の中に、救いの道があるのだ、と教えています。「試練は恵みへの通路」と自らを励まし、苦しみの中にある友を励ますことが出来ますように。共に苦しんで下さる十字架の主イエス様と一緒に、試練を受け止める勇気が与えられますように。









 

2016年10月30日日曜日

礼拝メッセージ  2016年 10月 30
説教題  「繁栄の時の失敗」
聖  書  ペテロ第一の手紙 1章5〜7
(序論)使徒ペテロは、キリスト者の歩みの中に、時には試練が必要であると言っています。「なければならない」とも訳される意味の表現です。いずれにしても、試練は、時にはキリスト者にとって必要なものといっても過言ではありません。
(本論)ペテロは、試練について二つの角度から語っています。まず「いまは、しばらくの間」と、試練が短期間のものであることを銘記させようとしています。私達の経験する試練は、人の一生ということに比べても、また永遠という無限の広がりに比べても、非常に短いものです。試練は確かに強烈なもので、有無を言わせずに迫ってくるものですが、大体において、全生涯に比べるならば非常に短期間のことです。
 第二に、ペテロは、さまざまの試練のあることを指摘します。「さまざまの」というのは、「いろいろな色の」と訳する表現です。ある種の試練は暗い彩をしており、ある種のそれは、明るい彩をしています。
逆境の時は、繁栄の時よりもかえって容易である場合があります。その証拠に、逆境のとき見事に勝ち抜いた者たちが、繁栄のとき大敗北を経験しています。ダビデ王、ソロモン王が、平和な時、祝福された時、失敗へとつながりました。私たちの人生も幸せな時、物事が順調に行ってる時こそ注意が必要です。 
(結論)再度語ります。明るい彩の試練があるといううこと。幸せな時、物事が順調に行ってる時こそ注意が必要であり、み言葉に聞かなければならない時であると考えます。