2014年7月28日月曜日

礼拝メッセージ  2014年 7月 27日
説教題   「見張っておられる神」
聖 書   ホセア書 第14章4〜7節
(序論) 会堂の中に「嵐の中の舟」を描いた渡辺禎雄氏の版画がかかっています。ガリラヤ湖で嵐を静めたイエス様の奇跡の物語です。斜めに傾く舟、目を大きく見開いた弟子たちの表情は恐れと不安に満ち、絶望の中で死をも覚悟しているかのようです。穏やかな日常が突風によってすべてが無に帰す。これが私たちの現状です。しかし、ここに神の愛の働きかけの奇跡が起こるのです。この舟にキリストが乗っておられるのです。

(本論) ガリラヤ湖の弟子たちの経験は、私たちに「取り戻せる」希望を持たせ、祝福された将来を神が用意してくださっているとの信仰に導かれます。マルコによる福音書第6章には、弟子たちだけで舟に乗り、海の真ん中に出ている時、逆風のためこぎ悩んでいるのをご覧になって、イエス様は夜明けの4時頃海の上を歩いて彼らに近づき、「しっかりするのだ。わたしである。恐れることはない。」と言われ、舟に乗りこまれると、「風はやんだ」と書いてあります。彼らの信仰経験は、死の陰の谷を歩む時もわたしのそばにいてくださるメシアと会う経験となりました。

(結論) 常に私たちに目を注ぐ神が耳をそばだてて、深きふちからの私たちの叫びを祈りに変えて聞いてくださっています。そして、私たちの帰るべき場所に導いてくださいます。そこに、将来に関わる夢と希望が見えてきます。今朝のテキストはただキリストの言葉によってすべては変えられていくという真理を私たちに教えてくれています。ガリラヤ湖上に浮かぶ舟の奇跡の物語から、私の人生に働く神の恵みを見せていただきます。礼拝の初めに賛美した221番はペテロもトマスも立ち直りのチャンスをイエス様から頂いたその証の賛美です。

2014年7月20日日曜日

礼拝メッセージ  2014年 7月 20日
説教題   「和解の祝福」
聖 書   エペソ人への手紙 第2章11〜22節
(序論) キススト者の平安の原点は、この小さい者をご自身の愛によって、神が私の味方として立ちあがってくださっている、私はイエス様を信ずることによって、神様と平和の関係にあるという確信が持てることです。主の十字架と復活、キリストの生きられた生涯のすべてにより、人は神様の一方的な愛によって神と「和解」した存在だと信じられるのです。

(本論) 神の御手の中にある愛されている私は、神の慈愛のぬくもりの中でかけがえのないものなのです。私たちは、神様がこの罪深い者を徹底的に追い求めて探し出された羊です。この者を「わたしの支持する我がしもべ」として取り扱って下さる。ここが「生かされている」私たちの居場所なのです。しかも、救いの恵みによって、神との和解によって、自分のことばかりでなく他者のために生きたいという願いを持つ者に変えられた私たちです。神様は、争いの多い人間関係を失望とあきらめで終わらせず、一緒に喜び、一緒に苦しみ、そして望みの朝を待ち望む理解しあえる関係に変えさせてくださいます。

(結論) もう一度、主の祈りを一語一語味わいつつ祈ってみましょう。私たちは、すでにイエス・キリストが歩まれた道をたどって、主と共に歩んでいくのです。私たちは主の救いを持ち運ぶ務めを与えられたしもべにすぎません。和解の福音の祝福を味わい実行するために、人々との良き出会いを求めていきましょう。人々の中で生き働くのが私たちの使命です。

2014年7月13日日曜日

礼拝メッセージ  2014年 7月13日
説教者   日本ナザレン教団鹿児島教会 久保木聡牧師
説教題   「『ほんまに良かったぁ~』と言える人生がやってきた」
聖 書   ローマ人への手紙   第8章 28〜30節
 神はあなたを、また世界を極めて良いものとしてお造りになりました。この世界に要らないものはありません。草食動物は植物を食べ、肉食動物は草食動物を食べ、動物の排泄物も死骸も大地の肥やしとなり、植物が育っていきます。何一つ無駄なものがない世界を神様はお造りになりました。
 しかし、人間はそのことを受け入れられない現実があります。ある人を要らないと切り捨てて人間関係がいびつになり、あるものを要らないと捨てて生態系が壊されています。神の視点に立つなら、すべてが必要なのですから、要らないと思えるものすら益とされていくのです。そのことを信じていくなら、人間関係も良好となり、地球も住みやすくなるのです。しかし、なかなかそう思えないのが人間の現実かもしれません。
 イエス・キリストは世間が必要としないどんな人に対しても、「あなたが必要」とおっしゃいました。あなた自身、自分の中のある部分に「こんな自分はいらない」と言いながら、自分を傷つけてしまっているかもしれません。しかし、キリストは「そんなあなたも大切だよ」とおっしゃって、あなたを抱きしめておられるのです。
 自分の人生を振り返って、この経験は無駄だった、あの人との出会いは無意味だった、と言えば言うほど、むなしさが増すものです。今はわからなくてもすべてに意味があり、わたしの人生を豊かにするための良き学びであったと気づかされ、喜び踊る日に必ずつながります。今まで気づかなかった自分の人生の輝きに驚かされる日々はもうあなたの手のひらにあるのです。

2014年7月6日日曜日

礼拝メッセージ  2014年 7月 6日
説教題   「神様からの新しい任命」
聖 書   使徒行伝 第9章9〜16節
(序論) 人は自分が神の慈愛の御手の中で生かされていることを知るまで、放浪の旅人である、と言われます。キリストにお会いするまで、パウロの人生は波乱に富んだものでした。彼はキリストにお会いするまでの自分の半生を次のように述べています:「ユダヤ教を信じていたころのわたしは激しく神の教会を迫害し、また荒らしまわっていた」(ガラテヤ人への手紙第1章13節)神はこの人をとらえてご自身の働きの器としました。

(本論) パウロのダマスコ途上における復活の主との衝撃的な出会いが、彼のその後の人生を激変させました。主はパウロについて次のように語ります:「さあ、行きなさい。あの人は、異邦人たち、王たち、またイスラエルの子らにも、わたしの名を伝える器として、わたしが選んだ者である。」(使徒行伝第9章15節)キリスト教の世界宣教の始まりはパウロにあるといえます。異邦人伝道の困難さの中で、救いの恵みの確信が彼を前に押し出したのです。神の愛への素直な応答として主のために精一杯生きることの素晴らしさを主の僕は体験しました。
 モーセもまたパウロと同じ通過点を通り、神からの新しい任命を受けて、エジプトで奴隷とされていた同胞のために自分を神にささげて、私たちの模範となりました。

(結論) 「いっさいの重荷と、からみつく罪とをかなぐり捨てて、わたしたちの参加すべき競争を耐え忍んで走りぬこうではないか」ヘブル人への手紙第12章1節)私たちに人生の目標と任務とを与え給う神ご自身が、責任をもってそれを成就させてくださるとの信仰に立ちましょう。