2015年1月25日日曜日

礼拝メッセージ  2015年 1月 25
説教題   「和解
聖 書   コロサイ人への手紙 第1章21~23節
(序論) 聖書は「あらゆる出来事を通して私たちを神様に結びつける」と教えます。順境の時も逆境の時も、神様がこれらの中を「通過せよ」と導いてくださると信じる時、希望を持って前向きに生きることができます。神様は信じ従う者に失望を与えない結果に導いてくださいます。闇の深さの後に朝が来て、冬の寒さの中に春を期待するように、人はいくつかの曲がり角を通った後で、神様はここに来るために私たちと共に歩いてくださったのだと納得させられます。「神は愛なり」、これがクリスチャンの合言葉です。

(本論) コロサイ人への手紙は、パウロの獄中書簡と呼ばれるものの一つです。彼はローマの獄中で、自分の宣教によって救われた人々のたくましい育ちを祈り気づかいながら、これらの手紙をしたためました:エペソ人への手紙、ピリピ人への手紙、コロサイ人への手紙、ピレモンへの手紙。「本物の信者たれ」と獄中で書いています。「私の宣べ伝えた福音は何であるかを聞き直し、聖霊の導きの中で教えられ養われ成長しますように」と、パウロのやさしさと厳しい導きが行間から伝わってきます。彼は獄中という疎外された孤独の中で、自分の信仰の原点を彼らに語ります。ご自身の十字架の血によって和解の道を作ってくださった神様の一方的な愛の赦しによって、私た ちを聖なる傷のない責められるところのない者として、御前に立たせてくださったのです。神様がご自身の働きに私たちを予定されていることは、なんと素晴らしい感動ではありませんか。多くのクリスチャンがこの感動に立ち上がって、神様の証人の働きに自分を捧げています。

(結論) パウロの獄中書簡は、喜びの書簡とも言われています。十字架と復活を私たちも自分の信仰の確かさのよりどころにしましょう。神が私たちの味方として勝利を約束されています。揺らぐことなくしっかりと聖書の示す信仰に立って、信仰から信仰に共に駆け抜けてまいりましょう。人は迷うものですから、立ち止まって誰かと共に祈り合い、教え合っていきましょう。

2015年1月18日日曜日

礼拝メッセージ  2015年 1月 18
説教題   「神様の心遣い
聖 書   ヨハネによる福音書 第19章23~27節
(序論) キリストの十字架の上での7つの言葉をご存知でしょうか。1つ目は「父よ彼らをおゆるしください」(ルカによる福音書23章34節)です。2つ目は十字架に一緒にかけられた者に言われた言葉、「あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」(同43節)。3つ目はご自分の母に言われた言葉、「これはあなたの子です」(ヨハネによる福音書19章26節)。4つ目は「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(マルコによる福音書15章34節)、5つ目は「わたしは、かわく」(ヨハネによる福音書19章28節)、6つ目は「すべてが終わった」(ヨハネによる福音書19章30節)、7つ目は「父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます」(ルカによる 福音書23章46節)です。どうぞ、聖書を開いてこれらの言葉を黙想してください。新しい恵みを発見するでしょう。

(本論) 今朝は、3番目の、母マリアに語った言葉に注目してください。母と愛弟子とがそばに立っているのを見て言われました。「婦人よ、ごらんなさい。これはあなたの子です」と、そして、弟子ヨハネに言われます、「ごらんなさい。これはあなたの母です」(ヨハネによる福音書19章26、27節)。なんと細やかなイエス様の心遣いでしょう。母を肉の兄弟に託すのではなく、教会という新しい家族に迎えてください、という意味です。イエス様は人間を理解しておられ、キリスト者は信仰の仲間の中で育てられるという暗示でもあります。ヨハネはこの言葉に応答して、イエスの母マリアを引き取ったのです。

(結論) 人が共に生活することの困難さを経験する私たちの日々です。しかし、この困難さを乗り越えるのは、祈りと和解の信仰です。神様は今、円熟した信仰者であるようにと期待しておられます。隣人のために「何かできる」、この信仰が他者とかかわる時に勇気を私たちに与えてくれます。髪は困難の中にある隣人を私たちに委ねておられます。イエス様にならい、これらの人々を迎え入れる心遣いを互いに持ち合わせさせていただきましょう。

2015年1月11日日曜日

礼拝メッセージ  2015年 1月 11
説教題   「貧しさの中にある富
聖 書   コリント人への第一の手紙 第1章26~31節
(序論) 「初心に帰る」、このことが自分を見つめ直す時となります。預言者イザヤは、「主を尋ね求める者よ、わたしに聞け。あなたがたの切り出された岩と、あなたがたの掘り出された穴とを思いみよ」(イザヤ書51:1)と言います。初めて教会に行った時、親切な歓迎の言葉に恐れの心が消えたこと、礼拝に参加した時、わたしの居場所がここにあると直感したことを思い出しませんか?いろいろな中を通りながら信仰の友に会える喜びが信仰を継続させてくれました。

(本論) そして、今朝この御言葉を聴きましょう:「兄弟たちよ、あなたがたが召された時のことを考えてみるが良い」(コリント人への第一の手紙第1章26節)。イエス様を信じて自分の人生の方向転換をしたあの日から自分が変えられてきたことを、ある人は鮮明に覚えています。また、ある人は、ゆっくり変えられつつ今の自分になっています。イエス様と出会い、自分の心の貧しさに気づかされ、自分の弱さを知る者となりました。信仰生活では、いろいろな中を通り、悩み、苦しみ、つまずきながらも、イエス様が最善に導いてくださると信じることが大切なのです。神様は一人ひとりが立派に育ったから祝福されるのではありません。ダメな私たちを用いて、ご自身のわざに参加させてくださることに祝福があります。私たちはキリ ストの愛に召され、教会の肢体に加えられ、宣教者として用いられていくのです。パウロは、「この世で無きに等しい者をあえて選ばれたのである」(コリント人への第一の手紙第1章28節)、この自己認識が大切なのだと言っています。

(結論) 気前のよい神様は、空っぽの器に祝福を詰め込んでくださいます。貧しい者は神様が養ってくださることを知っています。それは、隣人に分け与えることができる程の祝福です。ガラテヤ人への手紙第5章22節にはこう書かれています:「しかし、御霊(みたま)の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制」。これがキリスト者の品性となります。私たちの生きる意味は、キリストの恵みによって周りを幸せにすることです。

2015年1月4日日曜日

礼拝メッセージ  2015年 1月 4
説教題   「共に行って下さるお方
聖 書   創世記 第12章1~15節
(序論) 聖書に登場する人物は、みんながみんな信仰深く立派であったとは言えず、むしろ人間的に弱い面も合わせ持っています。その人間臭さが、信仰の世界の奥の深さを表しています。その弱さを知ることで、私にも神は望みを持っていて下さると勇気づけられます。人を理解する時には、その人の一部ではなくその人の生涯にわたる物語から全体像をみることが大切でしょう。

(本論) 信仰の父アブラハムについても、彼の輝く部分だけでなく陰の部分を含めた彼の生涯全体を通して、信仰の父と言われる人間の真実と神様の慈愛の祝福に、私たちの目は開眼させられます。彼の輝きは次の短い一文にあります:「信仰によってアブラハムは、『受け継ぐべき地に出ていけ』との召しをこうむった時、それに従い行く先を知らないで出て行った」(ヘブルへの手紙11:8)。その詳細は創世記12章1~5節に記されています。苦悩の末の服従であったでしょう。次に"息子イサクの奉献"という究極の神の求めにも応じます。
 彼の暗さの一つ目は、エジプトに下った時、妻サラに「あなたは私の妹だと言ってください」と嘘をつきます。二つ目は、不信仰の故に神の約束を待てなかったことです。妻サラのつかえめハガルに産ませたイシマエルの誕生です。その後、 約束の子イサクの誕生まで、神はアブラハムを13年間待たされます。

(結論) 神の導きは、失敗をも用いて人を光に向けさせます。私たちと共に歩いてくださる神は、常に先頭に立って従う者を整え、ご自身の栄光に変えてくださいます。アブラハムの最後は、「高齢に達し老人となり、年が満ちて息絶えて、死んでその民に加えられた」と創世記25章8節に記されています。この平凡な安息を得るために、私たちは明日を信じて聖歌257番を歌うのです、「今日も励もう主に守られて」。