2014年9月28日日曜日

礼拝メッセージ  2014年 9月28

説教題   「御手のぬくもり」
聖 書   ガラテヤ書   第8章9〜13節
(序論) 人は「故郷」に帰る旅人だと言います。聖書には「地上では旅人であり寄留者である」(ヘブル人への手紙11:13)と書いてあります。人は、旅に出かける時、目的を持って出かけます。目的地に着くまでには、楽しいこともありますが思いがけないトラブルに遭遇することがあります。しかし、どんな時も神様は私たちと共にいてくださいます。そして、神様は真理への道に導いてくださるのです。それ故、旅の途中で遭遇する出来事は、「あなたに乗り越えてもらいたい」という神様からの愛のメッセージです。全てを最善の結果に導かれる神様からの祝福の中にいるのです。

(本論) 信仰に生きるとは、「私に従ってきなさい」と呼びかけてくださるお方を信じて聴従の決心をして従い続ける行為です。「ただ神が全てを良きに導いてくださる。」このことを信じて共に礼拝する仲間と一緒に神様を中心に人生を楽しめる世界なのです。聖書に出てくる人々の一生は、信仰による生き方の一つひとつに神様に従った者の輝きをみせてくれます。それは、彼らが希望をもって生きたからです。ゼカリヤはこう予言しています。「そこには、平和と繁栄との種がまかれるからである。すなわちぶどうの木は実を結び、地は産物を出し、天は露を与える」(ゼカリヤ書8:12)神が昔ヤコブに与えた約束を思い出しましょう。「私はあなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない」(創世記28:15、新共同訳)

(結論) キリスト者は、どんな状況に置かれても、神様の愛によって生かされていることを信じます。私たちは、主イエスの十字架と復活を信じているからこそ、どんなにへこんでいても希望を抱き、立ちあがることができるのです。「神はそのひとり子を世につかわし、彼によって私たちを生きるようにして下さった」(ヨハネⅠ,4:9)キリストの証人として、私たちは生かされているのです。今朝、「私は主にふれられて」という歌を讃美しました。お互いに主の愛によって生かされていることを感謝し、今週も歩いていきましょう。

2014年9月22日月曜日

礼拝メッセージ  2014年 9月21

説教題   「立ち上がり歩きなさい」
聖 書   使徒行伝 第3章1〜10節
(序論) キリスト教の神は今、私たちの中に働く神です。このお方は具体的に「言葉ーロゴス」をもって、今わたしにあなたにいつも近づいて教え導いてくださいます。そのことを聖書をよりどころとして強い信仰をもって「イエスは神の子である」と信じているのがクリスチャンという存在です。人は自分が誰かに愛され支持されて生きていることを知る時、幸せを覚えると聖書は言います

(本論) ここに一人の足の不自由な男がいます。歳は40歳くらいで神殿の「美しの門」と呼ばれる門の外で物乞いをして生きていた者です。ペテロとヨハネが物を乞うこの男に近づき、「物」ではなく「イエス・キリストの名によって歩きなさい」と癒しの奇跡を見せます。彼の右手をとっておこしてやる」足とくるぶしがたちどころに強くなり躍り上がって立ち歩きだした。歩き回ったり踊ったりして神を賛美しながら彼らと共に「宮に入って行った」使徒行伝3:7、8)この姿はかつての私たちです。彼は神殿の門の外にいました。つまり救いとは何の関わりがないと思い込んで運命を決め込み、しかたがない、これが自分なのだと惰性で生きていた彼、「置かれていた者」でした。人と関わる幸せを経験しない人生でした。「笑う」ことのない日々でした。この者に神は「キリストの名の権威で」彼の全身を「癒された」のです。

(結論) 彼のその後はどうであったか、私たちは想像するしかありません。でも、これだけは確かです。彼は自分が神様に愛されていたのだと気づき新しい生き方へ方向転換を実行したことです。自分の現在がどうであれ、この生命は自分のためだけでなく隣人のためにも輝いて燃え続ける使命が与えられている。それを生きがいとする自己発見です。彼は「十字架を負うて生きる」苦難の道を引き受けることのできる強さ持つ者にされるでしょう。

2014年9月16日火曜日

礼拝メッセージ  2014年 9月14

説教題   「人生の先輩に乾杯」
聖 書   テトスへの手紙 第2章1〜10節
(序論) 15日は敬老の日です。これは教会から始まった行事ではありませんが、「老人を敬い人生の教師として彼から学べ」という考えは聖書にも散見されます。「あなたは白髪の人の前では、起立しなければならない。また、老人を敬い、あなたの神を恐れなければならない。私は主である。」(レビ記19章32節)とあります。これは「自分の今あるのは、誰かの愛と気づかいによって支えられた結果であることを覚えておきなさい」という意味でもありましょう。

(本論) それ故、若者よ「老人をとがめていけない。むしろ父親に対するように、話してあげなさい。年をとった女には母親に対するように」(テモテへの第一の手紙5章1、2節)と勧めています。しかし、老人たちには「自らを制し、謹厳で、慎み深く、また信仰と愛と忍耐において健全であるように勧め」と、美しく老いるとはどんなことかを具体的に示しております。「人は誰かの星となれ、そして内容のある人の道を歩みなさい」ということではないでしょうか。「明けの明星」となって生きよう、これが神様が私たちに求めておられることです。神様は、不思議な摂理をもって私たちにそのような人生の先輩方と会わせてくださり、それらの方々の背中を見ながら今日まで自分の旅路を来られたのではないでしょうか。

(結論) もちろん、人は反面教師でもあります。失敗を見せて「それにもかかわらず生きる値打ちがある人生」があることを教えてくれます。特に信仰の先輩がその苦悩の中の真実を語ってくれます。人は不思議な神様の導きとしか言いようのない自分の物語を書き続けています。特に出会いの不思議さは私たちの将来を決定づけるものでした。その先輩方に励まされ、応援があって神様から離れずここまで来ました。「人生の先輩に乾杯」と感謝できる出来事を思い起こします。信仰の身支度を整えて、「ありがとう」と一言伝えておきたい人がいるのではないでしょうか。

2014年9月7日日曜日

礼拝メッセージ  2014年 9月7

説教題   「幸いな交わり」
聖 書   ピリピ人への手紙 第2章19〜30節
(序論) イエス様は、「自分は価値のない者」と思いこんで引っ込み思案になったり人間嫌いになった人に目をかけ愛しておられます。神様の前には人は誰でも平等に生かされています。神様はどんなに小さく弱い者、役に立たないと思いこんでいる者にも、「わたしはあなたを必要としている」とおっしゃいます。

(本論) 新しい隣人との関係を作って自分の力量を発揮しなさい、と神様は語り続けておられます。世界の人々に福音を伝えたパウロは自覚していました。「わたしは一人では何もできない。あなたに手伝ってもらって神様の素晴らしさが伝えられます。だから喜びと苦しみを一緒に分かち合える仲間になりましょう。教会は神様の家族なのだから」と語り行動し続けました。パウロはテモテを必要としました。「彼の神様と人々への誠実な働き、彼の徹底的な献身は暗い夜に輝く星のように人々に希望を与えている。」エパフロデトもパウロの働きのためにピリピの教会の使者として援助してくれていることに、パウロは感謝しています。彼が肉体の弱さゆえ皆の重荷になってい るかもしれないと心を痛めていることについて、ピリピの教会にとりなしの言葉で彼を弁護しているパウロのやさしい気づかいを知ることができます。

(結論) 人は、わたしは弱くいたらない者です、と自分を小さくみせることもあります。しかし、教会では、人はお互いに主にある友として他者を必要とします。そこに自分の存在の確かさを確認しながら、自分の務めを果たさせてもらいます。「幸いな交わり」の中で、隣人と出会い、その出会いを神様の摂理と信じ行動する時、愛をもって人に関われます。神様は私たちを広い場所に引っ張り出して、主の証人の務めを兄弟姉妹と共にさせてくださいます。