2016年1月31日日曜日

礼拝メッセージ  2016年 1月 31
奨励題  「いつも見ていて下さる神様」 (谷新治兄による奨励)
聖  書  ヨハネによる福音書 第15章1〜10節
奨  励 物心がついた時には、我が家には神様がいました。両親がクリスチャンで、何の疑いもなく生活していましたが、父が病気で倒れ、母が看病に、妹二人は施設に預けられ、我が家にとって本当に大変な生活が始まりました。
 神様は耐えられない試練は与えられませんでしたが、それからの日々は、本当に色々なことを通して神様がいつも私のそばにいて下さり、助けて下さる事ばかりでした。しかし、私はそんな神様に感謝することなく、どうやって教会に行かずに済むかばかり考えていました。でも、神様はそんな私をいつも見ていて下さっていました。神様から離れていると思っていたのは私だけで、神様はいつも私のことを見ていて下さいました。そして教会に帰るきっかけを必ず用意していてくださいました。
 イエス様は「私につながっていなさい」、と聖書で言ってくださいます。しかし、自分がどんなに離れようと思っても、離れられない、神様がいつも共にいて、神様の方から私を神様につなげて下さっている、と私は思います。どんなに苦しい時も共にいて下さり、私のことを見て下さっている神様に感謝して、これからの信仰生活も続けていきたいと考えています。



2016年1月24日日曜日

礼拝メッセージ  2016年 1月 24
説教題  「御言葉の真実を見せた人々」
聖  書  マタイによる福音書 第5章13ー16節
(序論) 聖書に登場する人々の生きざまの底流には、「臨在の主にある私」にいつもこだわり続け、この神を信じ続ける姿があります。わたしは愛されている、この確認が礼拝でもあります。 私たちはどんな中に置かれても、御言葉からくる力によってその中から立ち上がることができます。
(本論) 神様は、いつも私のそばにご臨在くださる。これが信仰者の原点です。迷いやすい私たちがこの原点に立ち帰り、神様と向き合うチャンスが用意されます。それは静まりの中で自分を知り、神を知り、私の隣人は誰かを気づかされて、行動する信仰者に立ち上がれる時です。慈愛の神が私に目をとめ、この世で主の証人の務めに当たらせてくださるのです。
(結論) 今は暗い時、と聖書は語ります。誰もがあたたかい人の心に触れて、生きてきて良かったと言いたいのではないでしょうか。神を愛し、人を愛し、自分も大切にして生きた人に、誰もが会いたいのではないでしょうか。人々はクリスチャンの生き方を欲しています。自分の命さえ惜しまず人を愛されたキリストに似た者にならせてくださいと祈り求める人を、神様はその御用のために用いて下さるのです。

2016年1月17日日曜日

礼拝メッセージ  2016年 1月 17
説教題  「神が良きに治める」
聖  書  エペソ人への手紙 第1章16ー19節
(序論) イザヤ書にこんな言葉があります。恐れるな、わたしはあなたをあがなった。わたしはあなたの名を呼んだ、あなたはわたしのものだ。」イザヤ書43:1)。聖書には、「人は神様に創られた故に、神に覚えられて存在している」とあります。人は、神のやさしさの中で育てられていることを感謝し、祝福できる者に変えられたのです。
(本論) 人は弱く傷つきやすく、そして時として現実は残酷です。うつに襲われたり、生きることをやめてしまう人もいます。しかし、誤解と無視、そして獄中にあってもなお生きることを「歓喜」した人がいます。それは、このエペソ人への手紙を記したパウロです。どんな状況の中でもぶれることなく、生ける慈愛の神を信じ、このお方により頼み、エペソの人たちのために、「主イエスに対する信仰とすべての隣人に対する愛が、あながたたに増し加えられるように」、と祈っています。ここに強い信仰者の結び合い、「絆」があります。
(結論) そして、人はいつか終りを迎えます。しかし、私たちは自分の終りを自分で見届けられません。それは、信じるしかありません。神は、従うものを責任をもって一番良い結果に治めて下さるのです。いつも精一杯全力で善意をもって生きましょう!神の目は私たちに届いているのですから。

2016年1月10日日曜日

礼拝メッセージ  2016年 1月 10
説教題  「十字架を背負わされた者の名誉」
聖  書  ローマ人への手紙 第5章1ー6節
(序論) 聖書の中には流れ星のように通り過ぎる人物がいます。彼らについて伝記的な叙述もなく謎めいた人物であるが、しかし彼らが果たした役割や生きた意義については、私たちいと小さい者にとっては真の望みが見えかくれします。
(本論) クレネ人シモンもそういう人物です。彼についての記述はわずか2節にすぎません。「彼らが出て行くと、シモンという名のクレネ人に出会ったので、イエスの十字架を無理に背負わせた。」(マタイによる福音書27章32節)とあります。シモンとイエス様の出会いが、無理に背負わされた十字架を通してであり、それは、神が私たちに対してゆっくりとそして味わい深く人生の転向を決定されたものであることを覚えさせられます。「無理やりに」、これが主のやり方です。担いゆく十字架を通して、不思議な神の摂理を信じ受け入れる者にさせられます。
(結論) 彼はこの主との行きずりの出会いを通して、自分に与えられた自らの使命を見出します。ローマ人への手紙16章13節の言葉を味わいましょう。「主にあって選ばれたルポスと彼の母によろしく。彼の母は、わたしの母でもある。」キリスト者の背負わされた道は、十字架を負いきることで新しい人間関係を拡大させるのである。

2016年1月3日日曜日

礼拝メッセージ  2016年 1月 3
説教題  「愛される者から愛する者に
聖  書  エペソ人への手紙 第4章12~16節
説  教    昔モーセが出エジプトの難事業に選び召された神は、ホレブの山奥で彼を聖別します。神の呼びかけの声は、「足からくつを脱げ」という言葉です。モーセの立っているその場所が神の愛する地であり、あなたをそこに遣わすという命令です。お互いの立っているそれぞれの場を通して神の使命と務めが果たされるのです。
 神が今、私と共におられる、この気づきが大事だと教えられます。詩篇46篇10節の言葉は、静まって私こそ神であることを知れ」です。御前に静まることからすべてが始まることを覚えて、新年の出発といたしましょう。
 神に愛されている自分を自覚することで、「死に至る病」(絶望)から脱却できます。そして、教会の外側にいる人々に「来てみなさい」と呼びかける神の子どもの務めを果たさせていただけます。御言葉を日々の支えとして神様の用意された私らしい歩みをしていけば、信仰の道を走破できます。
 「私は愛されている」という、この神との関係が隣人を愛せる者に変貌させます。その行動が、神の働きに参加することになります。「また、キリストを基として、全身はすべて節々の助けにより、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、それぞれの部分は分に応じた働き、からだを成長させ、愛のうちに育てられていくのである」(ピリピ人への手紙4章16節)。
拝メッセージ  2016年 1月 1
説教題  「御言葉を杖として
聖  書  ペテロの第一の手紙 第5章1~11節
説  教    2016年の元旦に、今生きておられるイエス・キリストの前に、皆様と共に礼拝の特権にあずかっておりますことを心から感謝いたします。
 詩篇8篇4節のごとく「人は何者で、これを顧みられるのですか」という言葉が心をうずかせます。ただ、神の一方的な恵みをもって主の祝福の中で生かされていることを覚え、自分が「切り出された岩とあなたがたの掘り出された穴とを思い見る」(イザヤ書51:1)時、神様の愛のみを強く覚えないわけにはいきません。
 新しい年のスタートに当たって、お互いに神様が用意してくださった各々のコースを完走するために、神様からの「呼びかけの声を聴き、御言葉を信仰をもって杖にように握りしめ、ひとときも手放さず、この道を走り抜きましょう。