2014年11月30日日曜日

礼拝メッセージ  2014年 11月 30
説教題   「救い主を備えて待つ」
聖 書   ルカによる福音書 第2章22~33節
(序論) 今日からアドベント(待降節)に入ります。クリスマスを準備して迎えるのです。礼拝のたびごとにキャンドルを増して4本輝くとき、暗さの中に希望が持てることを、心躍らせてクリスマスーキリストの祭ーを待望するのです。ベツレヘムの馬小屋での御子の誕生はこの世の縮図です。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩まず命の光を得る」と宣言されたお方によって救われなければならない自分に気づかされるのです。

(本論) シメオンという老人は信仰深くメシヤの到来を信じ待っていました。聖霊に感じて宮に入った時、マリヤとヨセフ、幼子を見て感動し、「私の目が今あなたの救いを見たのですから」と涙しました。彼は、色々な人生経験の中でなお自分をもって生きた人生の教師です。「人生の冬の時期」を通して神様はついにメシヤに出会うチャンスを与えてくださったと感動しました。神様は今もなお約束を実行するお方です。夜空に光る「明星」として存在しておられるのです。今は通過点であって、神は必ずわたしを良き地に導いてくださると信じましょう。人は、イエス・キリストによって新しい価値を持ち、自分の周りをはかりなおすことができるのです。そして、自分の務め を命がけで守る者に変えられるのです。

(結論) シメオンは、常に神様と出会うことのできる無垢な信仰と、神の声を聴くチャンネルに合わせ「聴き耳をたてて」待つ者であれ、というメッセージを私たちに伝えています。「われらにおのが日を数えることを教えて、知恵の心を得させてください」(詩篇90篇12節)。この緊張感がたまらなく幸いと思えるのです。感謝して生きる日々を信仰をもって味わうことができる生き方が、神様の約束の成就として一人ひとりに体験させてくださいます。 

2014年11月26日水曜日

礼拝メッセージ  2014年 11月 23
説教題   「輝いて生きる」
聖 書   ピリピ人への手紙 第2章12~18節
(序論) 人はどのように生きれば「生きがい」のある自分になれるのか。この問いに答えるのがキリスト教です。「輝いて生きる」人生でありたいと思いつつ、いつも失望と挫折を味わう私たちです。しかし、聖書の中の聖書と言われるヨハネによる福音書3章16節には、神はそのひとり子を賜ったほどにこの世を愛してくださった」とあります。「この世」に自分の名を入れて読むと、キリストを模範として生きるメッセージが聞こえてきます。苦行の人生ではなく、喜びと感謝のある、しかも輝いて生きる者に変えられる人生が、神の望まれる人生です。

(本論) 聖書の神は、信じ従う者に「常に善意をもって働きかけ、神が望んでおられることを自分の祈りとしなさい」と言われます。そして、この祈りは叶うと信じられるのです。だから、つぶやかず、疑わないで、キリストを信じる者らしくいちずに従ってまいりましょう。謙遜と柔和をもって神と人々に仕えつつ、決して自分を見失わないで、確固たる自分をもっているしたたかな存在感のある人生です。あたかも暗い夜空にまたたく星にたとえられます。「曲がった邪悪な時代のただ中にあって、傷のない神の子となるためである。あなたがたは、いのちの言葉を堅くもって、彼らの間で星のようにこの世に輝いている」(ピリピ人への手紙2章:15節)。これが私たちの生きが いです。

(結論) 毎年クリスマスが近づくと子どもたちが歌います。「星のように愛の光を暗いすみに照らしましょう。歌えいざ、歌え、たたえの歌を輝かせ、いざ輝かせ、愛の光を」。この讃美を日常生活の中で証しする者にならせていただきましょう。「わたしは自分の走ったことがむだでなく、労したこともむだではなかったと誇ることができる」(ピリピ人への手紙2章16節)。パウロのこの言葉を私たちも人生の晩年に告白したいものです。

2014年11月16日日曜日

礼拝メッセージ  2014年 11月 16
説教題   「イエス様が愛された人々」
聖 書   詩篇 第126篇
(序論) キリスト教の神は、慈愛の神です。罪人なる人間を救うために、イエス様は「十字架につけられ死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり」(使徒信条)と、私たちは信仰告白します。私たちは今も生きて働き、語り、教え導く神を信じているのです。

(本論) 今生き給う神を、「恐れる」のではなく、「畏敬の念をもって」神に生かされている自分を発見します。聖書と教会を通して神様に出会うことができます。神様と楽しい関係を持つと、人とのお付き合いも広く新鮮になり、幸せを感じる者になります。これがキリスト教の醍醐味です。
・聖書は、真の神様とは、イエス様とはどんなお方かを理解させます。
・この方は人の苦しみ、思い煩いをわかってくださいます。
・私たちのために涙を流される神がクリスチャンの信じる神様です。そして信じた者は、自分の人生の務めを見出し、自分らしく生きることを悟ります。
パウロは告白しています。「謙遜の限りをつくし、涙を流し、ユダヤ人の陰謀によってわたしの身に及んだ数数の試練の中にあって、主に仕えてきた」(使徒行伝20章:19節)。かつてクリスチャンを迫害した彼が、復活の主に会うことで生き方を180度転換して、後悔のない人生を全うしたのです。

(結論) 人は、苦しみ悩む者です。そのすべてを神様は御存じです。しかし、困難を通過してこそ、神様を喜ばせ、人のために何かができることを幸せな自分と思える者になるのです。「涙をもって種をまく者は、喜びの声をもって刈り取る。種を携え、涙を流して出ていく者は、束を携え、喜びの声をあげて帰ってくるであろう」(詩篇126篇:5,6節)。神様は、常に苦労する者の働きに十分な祝福をすでに用意して待っておられる。これが私たちのゆるがない希望です。

2014年11月9日日曜日

礼拝メッセージ  2014年 11月 9日
説教題   「主の前に立て」
聖 書   列王記 上 第19914
(
序論) 私たちの人生は、クリスチャンであっても、そうでなくても調子の良いときもあれば悪いときもあります。聖書に出て来る預言者エリヤもそうでした。エリヤも力強い姿を見せることもあれば、恐れと不安に押しつぶされそうになって弱々しい姿を見せることもありました。エリヤがどのように主に取り扱われていったのかを見ながら、私たちが弱さを覚える時、神様が私たちとどのように関わってくださるのかを確認しましょう。
(本論) 多くのバアルの預言者に主の力によって勝利したエリヤでしたが、それによってイスラエルの王と王妃に命を狙われることになってしまいました。それが恐ろしくなり、不安になってエリヤは逃げ出しました。「もう死にたい」とまで言いました(19:4)。そうして肉体的にも精神的にも限界まで追い詰められ、行き着いた神の山ホレブのほら穴に隠れるようにして入り込んで休みました。するとそこで主は「エリヤよ。ここで何をしているのか」と語りかけ、ご自身を現してくださり、エリヤに「外に出て、山の上で主の前に立て」と命じます。激しい大風や地震、火があったけれども、その中に主はおられなかった。しかし、確かに神がそこにおられることをエリヤは感じ取り、主の「かすかな細い声」を聞き、外套で顔をおおって主の前に出る決心をし、逃げ隠れていたほら穴の入口に立ち、再び主からの召しを思い起こし、新たな主から使命に奮い立つことができました。
(結論) 私たちも主がご自身を現してくださっていることを知るとき、主の前に立ち、主からの使命に奮い立って生きることができます。エリヤにご自身を表してくださった神は、現代の私たちにも聖書を通してご自身を現してくださっています。私たちも聖書のことばを通して神様を知り、主の前に立たせていただきましょう。

2014年11月2日日曜日

礼拝メッセージ  2014年 11月 2
説教題   「宗教改革の心」
聖 書   ローマ人への手紙 第5章1〜11節
(序論) 1517年10月31日、マルチン・ルターは「免罪符」の販売に抗議し、ヴィッテンベルク城教会の扉に95の提言を張り出し、この日が宗教改革記念日となりました。ルターの宗教改革は、「聖書に帰れ」という運動でもあります。

(本論) 1518年、ルターは異端と断罪されますが、人は誰によって救いの祝福をうけるのか、それはイエス・キリストを信ずる信仰によって神の義が恩寵として与えられると聖書は答えてくれます。そこから人の生きる目標が見えてきます。率直に「私は神の作品であって、良い行いをするように、イエス・キリストにあって造られたのである」(エペソ人への手紙第2章10節)という御言葉を受け入れることができるのです。私たちが大事にするのは、誰がどうこう言ったということではなく、御言葉を通して神はどう語っておられるかを真実に聴き、応答しようとする信仰姿勢です。

(結論) 聖書をとおして次の事を確かめましょう。
・御子を十字架につけてまで神様は私を愛してくださっていること。
・祈る時いつも「天の父よ」と呼びかけるお方が私の救い主であることの神認識。
・神様と真正面に向かい合い、人を大切にする愛の心を持って人と接するよう心がけること。
・どんな大変な時も、このことは譲れないこだわりのあることが、一つの道を完走する者の強さ。
先程讃美した新聖歌280番「神はわがやぐら」、この讃美こそルターの本音です。この歌は将来必ず大いなる祝福が与えられると信じていたことを表しています。