2015年5月24日日曜日

礼拝メッセージ  2015年 5月 24日
説教題   「彼らは座っていた。そして立ち上がった
聖 書  使徒行伝 第1章6〜11節
(序論) 今朝はペンテコステ礼拝です。キリストの教会が生まれた日です。教会はこの日を大切な記念の日としています。イエス・キリストの働きは十字架で終わったのではありません。復活された主は約束を残しています:「ただ聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて・・・地のはてまでわたしの証人となるであろう」使徒行伝1:8)。この約束が成就されました。キリスト者が新しい使命に向かって立ち上がったのです。
(本論) イエスの十字架は終わりでなく新しい行動の出発でした。彼らは一致しました。「イエスの兄弟たちと共に心を合わせてひたすら祈りをして」上からの力を待ち望みました。彼らは集まって祈りを共にして、神の指示を座して待ったのです。祈りによって私たちは神のなさることを待つことができます。キリスト者は常に二つの戦いを味わっています。自分と戦うことと、世という場で自分を見失わない戦いです。しかし、私たちは祈り、御言葉をもって立ち上がる時、主の証人の務めが果たせるのです。望みを失った時、自分を必要としている人に自分を献げる時、神様の助けによって、新しい生きがいを見つけるでしょう。 
(結論) 信仰を持つということは、広い世界に向かって羽ばたいていくことです。いつも恵の神に見守られて、教会という祈りのある人間関係の中で生かされていることで、感謝できる者に変えられていきましょう。神は人の弱さを超えて、神の恵みで生かしてくださいます。「御霊もまた同じように弱い私たちを助けてくださる」(ローマ人への手紙8章26節)。この確かさを信じて一隅を照らすキリスト者を、神は求めておられます。

2015年5月17日日曜日

礼拝メッセージ  2015年 5月 17日
説教題   「出会いの不思議
聖 書  ヨハネによる福音書 第1章43〜48節
(序論) 小さな偶然に思える出会いが、自分の生き方を決定づけることがあります。私たちもかつて何か確かなものを求め出した時、キリストに会うための備えが自分の中に、そして周りでも用意されていたように思えることがあったのではないでしょうか。聖書は、小さな出会いを通して自分が変えられて、幸せをつかんだ人間模様に彩られています。
(本論) 「人生の海の嵐に、もまれ来しこの身も、不思議なる神の手により、命拾いしぬ」新聖歌248番は、クリスチャンの感慨深い自分の姿です。良き出会いとは、「神様がこの人と出会わせて下さった。だからこの人と出会った関係を大切にしていこう」と心に決める一瞬から始まるものです。それは運命的ですし、むしろ聖書は摂理の中で生かされているのが人間だと言っています。
 ギデオンの働きの出発は、次のようなエピソードであったと聞いています。1898年の秋、ジョン・H・ニコルソンという青年がアメリカを旅行中、ホテルが満室で偶然サムエル・E・ヒルと同室せざるを得なかったことが、ギデオンの働きの不思議なきっかけでした。聖書の頒布活動が始まった後で、ウイリアム・J・ナイツが加わり、世界的な広がりとなり今日に至っています。
(結論) キリスト教会もいつも初めは小さい者が選ばれてイエス様の働きに加わりました。「出会った」のです。新しい変化が自分の心の中で起こったのです。それは単なる知り合いではなく、神様を中心として主の言葉に応答しなければ気持ちがおさまらない不思議な自己決定へと導かれて始まる、人と神様との関係の新しい認識です。そして、信頼し合う関係は、このご縁を大事にしようという気持ちへと、祈りの中で育てられていくのです。

2015年5月10日日曜日

礼拝メッセージ  2015年 5月 10日

説教題   「小さき者へのやさしさ

聖 書  エペソ人への手紙 第6章1〜4節

要 旨 今日は母の日礼拝です。5月第二日曜日を母の日と定めたのは比較的新しく、教会行事の中で始まりました。
 その起源は、アメリカのウェブスターにあるメソジスト教会で40年近く日曜学校の教師をしていたクレア・ジャービスというご婦人が、1905年5月9日に亡くなり、その娘アンナ・ジャービスは愛する母を記念して、毎年その日に近い日曜日にカーネーションをささげて母を偲びました。この麗しい行為が教会の行事となり、1914年アメリカの国の祝日と定められました。
 私たちもいつも陰の存在である母を覚えて、天上の母、地上の母に感謝の気持ちを表したいものです。時に悲しい母との思い出しかない人も、自分が生き、働き、友を持ち、家族の中で生かされている事実だけは感謝に値するものです。
 旧約聖書の十戒の中の「父と母を敬え」は、今日の聖書の言葉につながります。
 「子たる者よ。主にあって両親に従いなさい。これは正しいことである。」(エペソ人への手紙6章1節)
 母を通して私たちは人生を教えられました。
 ・人は生みの苦しみを経験して愛する者と幸せを共感できます。
 ・生活の営みを通して自分が誰かに覚えられて育てられてきたことを気づかされるのです。
 ・人は人のやさしさによって望みの回復を与えられるのです。
 それでもなお、人間関係の葛藤の中でもっと確かなものは何かを探し、やがて私たちは本当の神様を求める者にならせてもらったのではないでしょうか。


 



2015年5月3日日曜日

礼拝メッセージ  2015年 5月 3日
説教題   「主の食卓に連なる喜び
聖 書  コリント人への第一の手紙 第11章23〜26節
(序論) 教会では聖餐式と呼ばれる礼典があります。水島教会では月の最初の礼拝の中で行います。初代教会の礼拝が行われるところでは、集うたびごとにパンをさいて分け合って食し、ブドウ酒を口にすることによって主イエス・キリストの救いの出来事を体で覚えさせられました。
 
(本論) この礼典は、洗礼を受けている者への特別な配慮の中で執り行われます。彼らは、その時イスラエルの民がエジプトから解放されたことを思い返し、キリストの十字架と復活によって自分が望みある者として神様を語れる者にされていることを確信させます。パンとブドウ酒はキリストの贖いを表します。神様を信じる者は暗い道ではなく、光を求めて歩き続けます。「わたしはいのちのパンである」と言って下さる方を食することで、新しい生命と健やかな信仰者の姿を取り戻していくのです。コリント人への第一の手紙11章23-26節は、聖餐式の時に読まれ、信仰の心の中に働く力をもっています。味わい深く読み直してください。
 
(結論) エマオの弟子たちの話を重ね合わせると、もっと深く聖餐の意味が味わえるでしょう。「一緒に食卓につかれた時、パンを取り、祝福してさき、彼らに渡しておられるうちに、彼らの目が開けて、それがイエスであることがわかった」(ルカによる福音書24章30、31節)。聖餐は、イエス様が招待された食卓です。この食卓に自分の座る場所があることを心から感謝しましょう。ここにはお互いが安心して関われる交わりがあります。信仰の奇跡が今も私たちのうちに起こるのです。自分の置かれたところで主の証人の役目を果たすことができるとイエス様は約束されています。感謝。