2014年2月16日日曜日

礼拝メッセージ2014年2月16日

説教題   「主の配慮の不思議」

聖 書   ペテロ第一の手紙 第1章22~25節

(序論)冬季オリンピックの真っ最中です。フィギュアスケートの連島出身高橋大輔さんは6位の成績でしたが、競技終了後のさわやかな笑顔に、彼の持っている何かを見せられました。一生懸命に滑った後のさわやかさ、あの笑顔に私たちが学ぶものがあるように思います。世の人に学ぶ、これも大切なことです。神様が私たちに委ねられている人生の宝を誰かに届けましょう。互いに幸せになることができます。

(本論) 四季の変化の中で、巡り来る春を信じて望みを持たされます。私たちはシャローム(平安)の届け手です。絶望という泥沼ではなく、希望の向こう岸が用意されています。生きておられる神は私たちの傍らにお立ちくださって、神を信じ、人を信じて一緒にこの道を行きましょうと道を示してくださいます。信じ合って一生懸命生きましょう。必ずそのこに神の用意された祝福がある、これが教会の伝えたい福音です。
 オリンピックは平和の祭典です。神様は人間を大切にして共に生きる喜びを学ばせてくださいます。一人ひとりは頼りない灯でも、隣人に点火されて大きな平和の輪になります。預言者ミカは、「国は国に向かって剣を上げず再び戦いのことを学ばない」(ミカ4:3)、こんな時代の到来を祈り求めよと言っています。イエス様もまた、平和をつくりだす人は幸いである、それが私たちの務めである、と言ってくださっています。

(結論) 今一度、神と人の前に、柔和で謙遜に生きているかを確かめましょう。どんな時も自分が神様に愛されていることを心に刻みましょう。神様に喜ばれる人生とは、誰かの幸せのために自分に与えられている賜物を捧げて共に生きることを喜ぶことです。


2014年2月9日日曜日

礼拝メッセージ2014年2月9日

説教題   「主の宣言『エパタ(開け)』」

聖 書   マルコによる福音書 第7章31~37節

(序論) 聖書には原語そのものを残している言葉があります。「アーメン」まことに、「ハレルヤ」主をほめたたえよ、「アドナイ・エレ」主の山に備えあり、今日のテキスト「エパタ」開ける、「マラナタ」主よきたりませ。これらは神の言葉の権威と力を表しており、神の一方的な宣言を聴く者に畏敬と信仰の服従を迫ります。

(
本論)
 これらの言葉は、「神の言葉を聴いた」との確信を与えます。
 ここに耳の不自由な、言葉の不自由な男がいます。彼は神と人に閉ざされた存在で、神と人に関わりをもたない人間でした。これは私たちの姿でもあります。しかし、この人をイエス様のもとに連れてきた人達がいます。そして主はこの男に愛をもって近づいてくださいました。イエス様は慈しみ深く、「群れの中から連れ出し」「天を仰いでため息をつき」その人に言われたのです:「エパタ(開かれよ)」。すると彼は癒されたのです。何の理屈も語らず、エパタと宣言され、彼の中に眠っている信仰を呼び覚まされたのです。ただ私の言葉を聴いて従え、これが主の愛の行動であり呼びかけでした。神と人に対して「閉ざされていた」彼が、素直に神に自分を任せた時、奇跡は起こったのです。

(
結論) 
自分に何の希望も見いだせず、これが自分の運命だと信じ込んでいた男に、主は癒しをもって生きる希望と自分がしなければならない務めを発見させました。彼は新しい人生を始めたのです。

 キリスト教の救いとは、新しい自分をイエス様の愛のタッチによってスタートさせることです。そしてイエス様がそのことを始めてくださるのです。私たちは奇跡を信じます。主がこのことをしてくださる、これが大事なことです。主と共に生きることを楽しみましょう。

2014年2月2日日曜日

礼拝メッセージ2014年2月2日

説教題   「愛の気づかい」

聖 書   ルカによる福音書 第10章25~37節

(
序論)聖書のメッセージは「福音」と呼ばれます。「福音」とは、「よろこばしいしらせ」という意味ですが、聖書の語る「福音」とはどのようなものでしょうか。
 人は偶然に生まれ、たまたま生きているのではありません。神を信じて生きるなら、どんな状況の中に置かれても、神の愛のぬくもりの中で生かされているという幸せを実感できる者とならせていただけるのです。

(
本論)
 本日のテキスト、ルカによる福音書102537節は一般に「善きサマリヤ人」の例え話として有名です。一人の律法学者がイエス様に問います:「先生、何をしたら永遠の生命が受けられますか」。すると主はこの学者に、「律法には何と書いてあるか」と逆に問いかけます。彼は満点の答えをします:「『心をつくし、精神をつくし、力をつくし、思いをつくしてあなたの隣人を愛しなさい』とあります」。すると主は一言「その通り行いなさい。そうすれば生命が得られる」と言われます。彼は「私の隣り人とは誰ですか」と反論します。

 そこで主イエス様は、「隣人」に対する愛の関わりの中にこそ人間の関わりの拡大と幸せの根源が隠されている、とさとされます。祭司、レビ人、彼らは宗教家と言われる人々です。今まさに死ぬかもしれない傷ついた旅人に出会った彼れが、どのように行動するのか。私たちの気持ちの一番底に隠されている非情さを、「向こう側を通って」という言葉で、主はこの状況をリアルに語られます。

(
結論)
 ここに助けられる必要のある私がいます。そして、その同じ私が、神の祝福によって強くされ、善きサマリヤ人として人々と出会うためにこの世に遣わされています。人は神の気づかいを信じて、自分が本当に本気にやっておかねばならないことを見つけ出せます。黄金律と言われる「人にしてもらいたいと思うことを、人にしなさい」(マタイによる福音書712節)との言葉に率直に応答しようとする自分にならせていただきたいものです。