2020年5月27日水曜日

2020年5月31日
ペンテコステ礼拝メッセージ
水島ナザレン教会 牧師:滝本文明
主 題  「主の平安・聖霊降臨」   ヨハネ14章25~27節
 皆様、お早うございます。主の守りの中、お元気で与えられた使命に活かされておられることを信じ、感謝いたします。新型コロナ第一波は、日本では収束しつつありますが、北海道や他国では、第二派が起こっています。まだまだ気をぬいてはいけません。礼拝堂では、3密状況下に置かれています。注意して礼拝を捧げましょう。
 さて、本日531日はペンテコステ、つまり聖霊降臨の日です。世界中の教会はクリスマス、イースターと共にこの日も大切な日として祝ってきました。それは神の聖霊が特別の仕方でキリストの教会に与えられたという出来事です。しかしこの聖霊降臨ということに関しても、昇天と同様にマタイ・マルコ・ヨハネの福音書には記されておらず、ルカのみが福音書の続編としての使徒行伝に書き記しています。ルカによる福音書の主人公がイエス様だとすると、使徒行伝の主人公は聖霊様であるといわれ、使徒行伝は聖霊様の福音書であるという人もおります。つまり、ペテロやパウロという使徒たちの活躍も聖霊様の働きによって達成されたわけで、聖霊行伝ということもできます。
聖霊様は、旧約聖書において、すでにダビデ王の口を通して語っています(使徒行伝116節)。また聖霊様は、預言者イザヤを通して語っています(同 2825節)。そしてステパノは、ユダヤ人が歴史を通して、いつも聖霊様に逆らってきたと非難しています(同751節)。聖霊様は、あらゆる時期、あらゆる時代で神様の真理と神様のみこころを啓示されます。
つまり聖霊様というのは、神さまの働き、神さまの現臨の説明であり、聖霊論の意味は、神さまの働きかけの、分かりやすい説明と考えてもいいでしょう。神さまは永遠に、父、子、聖霊なる方なのです。しかし、ペンテコステの日に特別のことが起きました。この日に、神さまの霊がイエスの名において集まっている人々の上に、天から下って来られたのです。それまで風のように静かに、人々の上に吹きつけていた神さまの霊が、この瞬間から初代教会を支配する実在の原動力となったのです。旧約聖書の時から働いていた神さまの働きが、この日に、特別な仕方で下ったのです。この聖霊の神学を、ルカは独自の仕方で展開したということができます。
キリストさまの十字架と、復活と、昇天を、経過したあとの日に、一つの家に集まっていた弟子たちに、共通する特別の体験が、与えられたのです。それは、この日に神さまの霊が新しくいっそう力強く、自分たちの中で働いているのだ、という強烈な体験でした。その出来事をルカは神話的な書き方で伝えています。
この聖霊様の降臨により弟子たちは、それまでの耳で聴く者から、口(舌)で語る者へと変わったのです。このときから彼らは、氾濫するいろいろの情報の中から、本当に大切なこと(真理)を聞き分ける力を与えられ、本当に大切なことを語りうる者となりました。
彼らが語った一番大切なこと、それは「神さま」についてであります。旧約聖書に、神さまの霊は風のように吹くとあります。風は目には見えませんが、風とは空気が動くことです。われわれは空気がなければ生きてはいけませんが、時としてそれは台風、ハリケーン、サイクロンなどという大きな力にもなるのです。初代の教会の指導者たちは、聖霊さまに満ち、オーラに満ちた人々だったでしょう。われわれが空気を自然に呼吸しているように、彼らの中に聖霊様が生き生きと活動していたのでしょう。
聖霊様というのは、神さまの力が風のように、空気のように、いま私の中に働いているということです。それがイエスさまの十字架、復活、昇天のあとに、それ以前よりもさらに力強く働き始めたということでしょう。これは、いまも神さまが2000年前と少しも変わらずに、風のように働いておられるということを教えてくれる話なのです。中東の砂漠などを旅していますと、風で砂が回転する柱のように竜巻となって現われ、動き回るのを見ることがあります。そのように、彼らは神さまの力強い働きを見ることができたのかもしれません。
また、このペンテコステの出来事は、旧約聖書創世記11章のバベルの塔において、神様の罰として世界中の人間の言葉が混乱(バベル)してしまったことへの回復ということができます。キリストの十字架、復活、昇天のあとに、新しい形で与えられた聖霊さまの働きによって、世界の人々の心は再び一致することができるのだ、というメッセージです。
ヨハネ14章の26節から読みます、「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によって遣わされる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、またわたしが話しておいたことを、ことごとく思い起こさせるであろう。わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる。あなたがたは心を騒がせるな、またおじけるな」。
1)弁護者となって下さる聖霊さま(助け主)
ペンテコステの出来事が起こったとき、聖霊様が弟子たちのところに下りました。そこで与えられた聖霊様は、主が予告されたものでした。
主は「助け主(弁護者)、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊」と言われます。「助け主(弁護者)」というのは、「傍らに呼ばれた者」と言う意味で、神が、人間のかたわらに、キリストの名によってよんで下さった聖霊さまという意味です。つまり、助け主(弁護者)であられる聖霊さまは、人間と共に、常に神とキリストさまが、共にいてくださることを現す神さまであるのです。
2)全てのことを教えて下さる聖霊さま(真理の御霊)
私たちの傍らにいてくださる聖霊さまは、父なる神さまとキリストのみ心を、常にわたし達に知らせてくださいます。それだけでなく主イエスさまが、目には見えなくとも、私たちの傍らにいつもいてくださることを、知らせて教えてくださるのです。
また、聖霊さまは、私達を常にキリストさまのもとに、導いてくださいます。それに対してキリストさまから、私達を引き離そうとするのは悪魔(神に対抗する)の力です。
聖霊さまによって、私たちは、キリストに結び付けられ、神さまの御心に、従う生活へと整えられていきます。
「私が話したことをことごとく思い起こさせてくださる」26節)
また聖書の言葉を、私たちが読もうとするときに、誤った解釈や、独りよがりに読んだりすることがないように、聖霊さまの導きによって、主の本当(真理)の言葉を、理解できるようにしてくださいます。
3)主の平安が与えられます(主の平和)
「わたしは平安をあなたがたに残して行く、わたしの平安をあなたがたに与える。」27節)
主が与えてくださる聖霊さまは、、私たちに平安を与えてくださいます。主が与えられる平安とは、争いがないとか、けんかをしないと言う表面的なことばかりではなく、主が共にいてくださるところにある平安という事です。平和という言葉でも言い表されます。
聖霊さまは、主が共にいてくださることを、常に知らせてくださる神さまです。従って聖霊さまが私達に、主と共にいることを可能にし、そのことによって、私たちは、平安が与えられるのです。
「わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる。あなたがたは心を騒がすな。またおじけるな。」27節)
その平安は、主が十字架を通して人間に与えられた神との間の和解(罪の赦し)に基づく魂の平安といえるでしょう。ですから、主イエスによってしか与えられない賜物です。この平安の中に生きるときは、いかなる恐れもないということです。
結 論
 ではどうしたら、この主の平安をいただくことが出来るのでしょうか。
使徒行伝2章14節から42節で、ペテロの説教が記してあります。
37節:人々はこれを聞いて、強く心を刺され、ペテロとほかの使徒たちに、「兄弟たちよ、わたしたちは、どうしたらよいのでしょうか」と言った。すると、ペテロはが答えた、「悔い改めなさい。そして、あなたがた一人一人が罪のゆるしを得るために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、あなたがたは、聖霊の賜物を受けるであろう。」
この約束は、私たちにも、私たちの子どもにも、遠くにいるすべての人々にも、つまり、わたしたちの神である主が、招いてくださる者ならだれでも、与えられるものです。ペテロはこのほかにも、いろいろ話をして、力強く証しをし、「この曲がった時代から救われなさい」40)と勧めました。ペテロの言葉を受け入れた人々は、洗礼を受けその日に三千人ほどが、仲間に加わりました。「一同は、ひたすら、使徒たちの教えを守り、信徒の交わりをなし、共にパンをさき、祈りをしていた」。(40節)
 
使徒18節で、「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」と主イエスさまが言っておられます。
聖霊さまに満たされて、人々が語ったことは、主イエス様を証する言葉です。聖霊さまは、主イエスさまの十字架と復活の出来事を証させ、神さまの御業を語らせる霊なのです。
神さまが聖霊さまによって力をお与えになり、いよいよ地の果てまで、主イエスさまの証言が、宣べ伝えられる時が来ました。いよいよ人間が神さまに遣わされて、神さまの御業に用いられる時が来ました。集まって祈り、備えていた者たちが、語り始めます。
 
聖霊さまによって誕生した、主イエスさまの救いの業を宣べ伝える共同体、これが、教会の誕生です。ですから、ペンテコステは「教会の誕生日」とも言われているのです。
またこのことから分かるように、教会は聖霊さまによって、力を与えられて、初めて、主イエスさまの救いの御業を、語ることが出来ます。祈りのうちに聖霊さまの満たし、ご支配を求めましょう。

2020年5月20日水曜日

2020年5月24日
主日礼拝メッセージ
水島ナザレン教会 牧師:滝本文明
主 題  「恐れることはない。神が益に」   創世記50章15~21節
 皆様、お早うございます。主の守りの中、お元気で与えられた使命に活かされておられることを信じ、感謝いたします。4月19日より5週に渡り、コロナウイルス感染予防のために、
礼拝休止を余儀なくされました。本日より、会堂礼拝と家庭礼拝の2本立てで、礼拝再開できますことを、心より感謝いたします。
 さて、本日のみ言葉も祈りのうちに、与えられた箇所です。私自身、精神的ストレスが有り、み言葉から慰めと力が必要です。皆様それぞれ悩み、苦難は  違えども、世界的なコロナウイルスショックで、精神的に、経済的にストレス状況下にあります。中国・武漢の都市封鎖(ロックダウン)は、1月23日~3月25日まで、2か月以上も続き、武漢に住む人の手記が公開され話題になっています。 特に注目すべきは、子どもたちからの悲痛な助けのメールが、公開されています。一日中、子どもも両親も家に閉じ込められていると、夫婦げんかが多く、子どもが心を痛め、悲痛な叫びがあったそうです。そこで、記者が、アパートの1階の掲示板に、「子どものために、夫婦喧嘩はやめましょう!」との張り紙をしたのを、写真に撮り、SNS配信すると反響があり、多くの団地などの掲示板に、同じような張り紙がなされたとのことです。苦しい状況下では、いつも、子どもやお年寄りに、被害が及ぶことがあります。日本の私たちも、同じ状況下におかれていました。また今後あるかも知れません。教訓といたしましょう。
 今日のみ言葉の、1節から3節を見ていただきますと、ヤコブが死んだとき、ヨセフは父にすがって泣き、ヤコブの屍体をミイラにしました。「エジプト人も70日の間、彼のために泣いた」とあります。ヨセフが、エジプト人に愛され、信頼されていたことを知ることができます。
ヨセフはパロ(ファラオ)の夢を解き、パロによってエジプト第二の権力者の地位を与えられたのですが、その時から、彼はエジプト人を飢饉から救うために、全力を上げて忠実に勤め励み、それによって、パロとエジプト人の信頼を得ました。
父ヤコブの死をエジプト人も嘆き、彼がカナンの地に出向いて、ヤコブを葬るのをパロが許し、エジプト人の大臣や軍隊までが、ヨセフに同行したのでした。
 ヨセフがこのように異国エジプトのために忠実に励むことが出来たのは、パロの夢を解いた時から、それが神様の、み心だと確信していたからです。そして、兄たちが食糧を買うために、ヨセフの目の前に現れた時から、自分がエジプトに来て大臣にまでなったのは、イスラエルを飢饉から救うためだった、とハッキリ悟ったのでした(455)。 自分の使命を確信して、その勤めに励み、さらに自分独自に与えられている使命を、具体的に悟ることが出来る人は幸いです。
  1.  神さまの摂理の御手を信じる信仰
15節、さてヤコブが死ぬと、ヨセフの兄弟たちは再び恐怖にとらわれてしまいます。
ヨセフの兄弟たちが、彼らの父が死んだのを見たとき、彼らは、「ヨセフは、ことによると、我々を憎んで、我々が彼にしたすべての悪を、仕返しするに違いない」、と言いました。父ヤコブが生きている間は、弟ヨセフは父に免じて、自分たちを寛容に扱ってくれたけれども、父が死んだ今となっては、ヨセフの復讐を、とどめるものはなにもない、と兄たちは考えたのです。自分たちが、ヨセフの立場であったなら、きっと父が死ねば復讐をするだろうと思ったからです。
 かつて兄たちは、父に気に入られ可愛がられている弟ヨセフを妬み、亡き者にしようとしました。兄たちは、さすがに殺すのが恐ろしくなったので、ヨセフをエジプトに奴隷として売り飛ばしました。 ヨセフは、エジプトで奴隷として働き、牢獄に投じられて、たいへんな苦難を味わいました。しかし、神様は不思議な導きをもって、ヨセフをエジプトのパロに次ぐ第二のつかさの、地位にまで引き上げたのでした。
一方、神様はカナンの地に飢饉を送られました。そのために、ヨセフの兄たちはエジプトに食料を買い付けに来て、弟ヨセフと20年ぶりで再会したのです。このとき、兄たちは、きっとヨセフが自分たちに復讐するにちがいないという恐怖にとらわれたのでした。しかし、ヨセフは、兄たちを赦しました。ヨセフは言いました。 
4558節で「しかし私をここに売ったのを嘆くことも、悔やむこともいりません。神はいのちを救うために、あなたがたより先に、私を遣わしてくださったのです。この二年の間、国中にききんがあったが、なお五年の間は耕すことも刈り入れることもないでしょう。
神は、あなたがたの命を助けるために、わたしを、あなた方より先に遣わされたのです。それゆえ、私をここに遣わされたのは、あなたがたでなく、神です。 神は私をパロの父(王の顧問)とし、その全家の主とし、またエジプト全土のつかさとされました。」
  ヨセフは災いも、人間の悪意さえも、善に転じたもう神様の摂理を信じて、兄たちを心の底から赦すことができたのです。しかし、兄たちは自分たちが赦されたことを確信することができませんでした。自分たちがヨセフに対して犯した罪が、あまりにも大きかったので、赦されていることを信じることができないでいたのでしょう。
50章16、17節:そこで彼らはことづけして、ヨセフに言った、「あなたの父は死ぬ前に、命じて言われました、『おまえたちは、ヨセフに言いなさい、「あなたの兄弟たちは、あなたに悪を行ったが、どうか、そのとがと罪を赦してやってください』。今どうか、あなたの父の神に仕えるしもべらの、とがを赦してください」。ヨセフはこの言葉を聞いて泣いた。
 自分は赦しているのに、兄たちには赦していることが、信じてもらえなくて、ヨセフは泣きました。そうして、もう一度、心から赦したことを兄たちに告げ、やさしく語りかけたのでした。
19節~21節で、「ヨセフは彼らに言った。恐れることはいりません。私が神に代わることができましょうか。あなたがたは、私に対して悪をたくらんだが、神はそれを、良きに変わらせて、今日のように、多くの民の命を救おうと計られました。 それゆえに恐れることはいりません。私は、あなたがたと、あなたがたの子どもたちを養いましょう。」ヨセフは彼らを慰め、優しく語りました。
 私たちはここで、ヨセフの信仰をもう一度確認させられます。そして、それを私たち自身のものとしたいと願うのです。ヨセフの信仰は、神の摂理を堅く信じる信仰でした。ヨセフの信じる神の摂理とは20節にある通りです。
 「あなたがたは、私に対して悪をたくらんだが、神はそれを、良きに変わらせて、今日のように、多くの民の命を救おうと計られました。」
 また、ローマ書8章28節で、
「神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画にしたがって召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにしてくださることを、私たちは知っている。」とあります。
また、第一コリント10章13節「あなたがたの会った試練で、世の常でないものはない。神は真実である。あなたがたを耐えられないような試練にあわせることはないばかりか、試練と同時に、それに、耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのである。」と聖書は語ります。
 ですから、私たちは勇気を、希望を失いません。たとえ目の前に見える状況がいかに厳しくとも、「そこで神様を愛する、神様に従う」という決断をします。 そうすれば、神様はかならず難しいことも益に変えてくださいます。ヨセフは、奴隷とされ、さらに囚人となっても、神様と共に生きました。神の摂理を信じたからです。ヨセフはそうして祝福ある人生を手に入れたのでした。それは彼が総理大臣になったことが、すばらしいというだけではありません。
もし彼がエジプトの総理大臣の地位についたとしても、彼の心の中に兄たちに対する恨みを宿しつづけているとすれば、彼はきっと生涯不幸だったでしょう。 恨みや怒りや憎しみは人の骨を枯らしてしまいます。ヨセフが幸いだったのは、彼が神の摂理を信じることで、兄たちに対する恨みや怒りや復讐心から解放されたことです。それゆえに、ヨセフは、平安な人生を送ることが出来ました。
 
  1.  私たちの希望の神、主がおられる
 次にもう一つ、ヨセフに学んでおきたいことがあります。50章の後半です。
22節から26節を見てください。
ヨセフはエジプトで総理大臣まで上り詰めました。ヨセフのゆえに、7年間も続く大飢饉の中でエジプトの人々は命が助かったのでした。エジプト王パロも、ヨセフを尊敬し、彼に実権を委ねていました。ヨセフはこの地で尊敬の的でした。 名を遂げる人生というものがあるとすれば、ヨセフの人生は、まさにそういう人生でした。その舞台はエジプトだったのです。しかし、ヨセフは自分が死んだ後、自分がエジプトの土になってしまうことを望みませんでした。彼は、自分の亡骸がアブラハム、イサク、ヤコブが葬られた、カナンの地のマクペラの畑地の小さな洞穴に、葬られることを希望しました。それは、父ヤコブと同じ信仰の告白でした。
すなわち、ヘブル書111314「これらの人はみな、信仰をいだいて死んだ。まだ約束のものは受けていなかったが、はるかにそれを望み見て喜び、そして、地上では旅人であり寄留者であることを、自ら言いあらわした。…彼らが、故郷を求めていることを示している。」
ヨセフはミイラとなって、エジプト脱出の日まで保管されます。実際、後の日にモーセはヨセフのミイラを約束の地に携えてゆくのです。
出エジプト記13章19節に、「モーセはヨセフの遺骸を携えていた。ヨセフが、『神は必ずあなたがたを顧みてくださるであろう。そのとき、あなたがたは、私の遺骸を携えて、ここから上って行かなければならない』と言って、イスラエルの人々に堅く誓わせたからである。」
 ヨセフは神の約束をしっかりと握りぬいた生涯をまっとうしました。彼は、非常に優秀な、行政官として手腕を発揮したのでした。天にしっかりとした希望を持っている者こそ、自分の損得でなく神の御旨に従うことが出来ます。
 
結 論
 ヤコブの信仰は、神の約束の相続者として、天を見上げる信仰でした。ヨセフの信仰は日々、私たちの人生に働いてくださる神の摂理の御手を、信じる信仰です。私たちも、小なりとはいえ、彼らと同じ神さまを信じる者として、天の御国の約束をしっかりと握り、この地上の生涯を一歩一歩、神さま、あなたを愛します、信じます。という信仰の決断とともに歩んでまいりましょう。

2020年5月13日水曜日

2020年5月17日
主日礼拝メッセージ
水島ナザレン教会 牧師:滝本文明
主 題  「主は、必ずあなたを祝福される」   申命記15章1~10節
 皆様、おはようございます。主の守りの中、お元気で与えられた使命に活かされておられることを信じ、感謝いたします。先週、地区牧師会が、テレビ会議方式で行われました。山陽・四国地区の各教会の兄弟姉妹がたも、コロナから守られておられることを聞き感謝いたしました。
 しかし、広島、呉、岡山、今治、の各教会とも会堂での礼拝を控え、家庭礼拝中とのことでした。再開は六月から願っておられるとのことです。日本各地、少しずつコロナウイルスは、収束しつつあります。
当教会も、出来れば次週からでも再開できればと願っております。先週から祈祷会を再開いたしました。祈祷会後、「主日礼拝再開の日にち」を決める、臨時役員会をいたしました。この原稿は、13日()に書いておりますので、結論は今お知らせできません。決まり次第、皆様にご連絡いたします。
 さて、今日のみ言葉は、「これは、あなたがたが彼らの前に示すべき、おきてである。」(出エジプト記211)で言われているように、今日の申命記15章1~6節で、モーセはイスラエルに、七年目ごとに同胞の間の負債を免除するように命じ、主の祝福を説いています。
このことは、出エジプト記21:1節からと、レビ記25:1節からを見ますと、これらは主のご命令でした。モーセは、その主のご命令を受けて38年後に、「この主のご命令は、イスラエルを祝福しようとしておられる主のみ心だ」、ということを悟ったのでした。
主は私たちを祝福したいので、私たちに隣人の負債をゆるすように命じられたのです。
  1. 挽回するチャンス  神さまは、契約の民が負債に縛られることを喜ばれません。主は、
    安息年に、負債のある者を、心理的にも苦痛から解放し、安息させてくださるのです。神様が免除規程を定められた理由は、契約共同体の中の経済的格差を緩和し、挽回するチャンスを与えるためです。契約の民は、物惜しみせず、貧しい人々に寛容を施し、ともに幸せに生きることが出来るように配慮すべきです。そうする時、神さまから祝福され、豊かな共同体となり、多くの国々に貸し支配する強い国になります(4節~6節)。 信仰共同体の中で負債を免除することは、私たちの罪を価なく赦してくださったイエス・キリスト様の精神を実践することになります。
     新型コロナで、自宅待機、休業要請が続きますと、生活に困る人々が多く出てきました。
    生活が困窮すると、自殺者が多く出るとも言われます。3・11東日本大震災のあと5月から
    自殺者が多くでたそうです。今回のコロナウイルスによる生活困窮者、未来に対する失望から
    自殺者が出るのではと、専門家は懸念しています。あるテレビによく出る弁護士さんが、「絶対に死を選ばないでください。解決できる法律は、いくらでもあります。何度支払いを請求されても大丈夫です。恐れないでください。」と語っておられました。私もその通りだと思います。日本にも、様々な負債者を守る法律があります。
    2) 救済は選択ではなく必須  7節~11節、ここも同じ真理にもとづいた指示で、貧しい兄弟に物惜しみせずに与えよ、主は必ず祝福してくださるから、と言っています。9節で、与えないことで貧しい人が、主に訴えたなら有罪となると言われています。貧しい兄弟をかえりみることは、私たちの義務であり、私たちに負担を課するだけの義務ではありません。
    神さまは、貧しい者を「必ず」助けるように命じておられます、「そうすれば、あなたの事業と、手のすべての働きにおいて祝福される」(10、11節)。物惜しみせず「十分に」貸し与えなければなりません。契約の民の生活において、救済は選択ではなく必須なのです。
    使徒パウロは、第二コリント8章7節で、「この 恵みのわざ に富んでほしい」と言っています。このことに、私たちの目も開かれたいものです。 困窮している人たちから目をそむけず、十分に助ける者の手を、神さまは祝福してくださいます。
    ある宣教師が次のような話をしておられます。
     ソロモン諸島マラウ地域のノト部落で集会をした時のことです。集まった村の子どもたちの目は、一斉に私の口を見つめていました。それで、私は非常食もすべて開封し、子どもたちに分けてあげました。ある女の子にチョコレートの袋を開けてあげると、その子が逆さまにしたため、全部下に落ちてしまうと、あっという間に、ほかの子どもたちが拾って行ってしまいました。
    その子は恥ずかしくて、その場を去ろうと走り出しましたが、石につまづいて丘を転がり落ち、家に顔をぶつけて止まりました。頭を押さえて泣いている彼女を慰めていると、その子の目が、見えていないことが分かりました。私は胸が痛みました。 石鹸や抗生物質があったなら、その子が細菌のために失明することはなかったはずです。もし自分の子が、栄養失調で目が見えなくなったとしたら、私はどれほどつらいことでしょう。
     いつまで、自分のもとにいる子どものことだけ、考えているのでしょうか。自分の愛が、自分のもとから離れられない人ばかりだったとしたら、福音は決してエルサレムから出ることはなかったでしょう。私は人々から、南太平洋の泣き虫と呼ばれています。何もできていないと感じて泣いていると、ある日、それは主の涙だと思えるようになりました。この部族の未来は、深い山奥のようですが、立ち止まらずに進んでさえいれば、いつか主の喜ばれる目的地に、たどり着くでしょう。また、そうなるように祈ります。この時代に選ばれた私たちが、神さまの御前で、子どもたちの人生のために、するべきことはたくさんあります。
    結 論) 神さまは、ご自分の民が正しく行動するだけでなく、寛大であることを願っておられます。貸す人が、負債を負った者に正当に接するだけでなく、愛をもって接することを願っておられます。恵みによって救われ、新しいいのちに生まれ変わった私たちは、打算的に行動すべきではありません。神さまが私たちに、どれほど寛大に接してくださったかを知っている人は、人につらく当たったり、不親切にしたりすることは、できないはずです。 
    (チャールズ・スポルジョン説教集より)

2020年5月10日日曜日

2020年5月10日
主日礼拝メッセージ
水島ナザレン教会 牧師:滝本文明
主 題  「成熟したキリスト者」   ヤコブ5章7~11節
 皆様、おはようございます。主の守りの中、お元気で与えられた使命に活かされておられることを信じ、感謝いたします。週報に、皆様の状況を掲載しています。ご覧ください。
毎日の報道は、新型コロナ一色といった現実ですが、日本は、感染者がピークを越え下降ぎみのようになっています。しかし、死者数は、増加しています。 また、第ニ波、第三波もあるようなので気を抜かないで、感染予防を徹底いたしましょう。
 前にもお話いたしましたが、人類は、感染症との戦いの歴史でもあります。その中で日本人の偉業を知り誇らしく思います。 
. 天然痘 紀元前:エジプトのミイラに天然痘の痕跡がみられ、6世紀:日本でも天然痘が流行、以後、周期的に流行して来ました。15世紀:コロンブスの新大陸上陸により、アメリカ大陸でも大流行。 その後、近年1980年:WHOが天然痘世界根絶を宣言しました。その根絶に貢献したのが、日本人医学者の本庶 佑・京都大学特別教授が免疫治療薬「オプジーボ」を開発、これにより根絶に貢献し、2018年ノーベル医学生理学賞を受賞されました。 
. ペスト ヨーロッパの人口の3分の1の人々が死亡したといわれ、最大1日に1万人の死者が出たそうです。ゆえにローマ帝国崩壊が早まったと言われます。そして、このペスト菌を発見したのが、北里大学病院の創始者となった、北里柴三郎氏です。これによって、治療薬、ワクチン開発が加速されました。
3.スペインかぜ(インフルエンザ)、1918年に大流行、これは、スペインで大流行したから名前が付けられたのでなく、感染元は、アメリカの兵士からで、第一次世界大戦で感染したアメリカの兵士が、ヨーロッパの戦地に行き、塹壕(ざんごう)や、防空壕などの今で、いわゆる三密状態で感染爆発し、4.000万人の人々が死亡しました。 
ところが、戦争での死者は、1.000万人とのこと、感染症がどれだけ死者を多く出すかが分かります。 なぜ、名前が「スペインかぜ」と言われるようになったのか、その時スペインは 参戦しておらず、戦地の感染者の情報は、敵国に不利になるため隠され、情報が自由だったスペインから全世界に知られたため、「スペインかぜ」と命名される汚名を受けました。 これは、現在の新型コロナの流行を防ぐ良き教訓となります。 2020年厚生労働省が掲げた標語、三密と言われる「密閉、密集、密接」、スペインかぜは、この三密が原因で大流行し、4年以上続いた世界大戦が、1918年の11月11日に終戦を迎えました。スペイン風邪で、戦争しているどころではなくなったからです。
 前置きが長くなりましたが、今日のヤコブの手紙は、主の兄弟と言われているエルサレム教会最初の監督ヤコブ(イエス様の兄弟は、弟4名、妹2名と言われている)が、エルサレムから各所に散在しているユダヤ人の信徒に送った手紙です。パウロは、ローマ書、ガラテヤ書で、救いは律法の行いによらないことを説きました。ヤコブは、この手紙において、真の信仰には信仰の行いがともなわなければならないことを説きました。 パウロの所説と一致するだけでなく、パウロの所説を誤解する者があってはならない、ということで、聖霊なる神様が、特にこのヤコブにこの手紙を書かせられたものと考えます。
 7節「主の来臨の時まで、耐え忍びなさい。…見よ、農夫は、地の尊い実りを…耐え忍んで待っている」とあります。 
忍耐できない人は、農夫は務まりません。一夜明けて収穫というわけにはいかないからです。しかも、自分の力で、天候や雨量、日射量などを加減できないからです。ユダヤの国では、「秋の雨」「春の雨」は、二つの雨季のことで、農夫にとっては非常に、重要なものでした。春の雨は、三月、四月に降る雨でこの雨がないと、蒔かれた種は発芽しません。農夫は、自然が活動を起こすまでじっと耐え忍んで待つ必要があります。 そのようにキリスト者も、キリストが再臨されるまで、耐え忍んで待つのです。そして実りが得られるように、キリスト者は、貴重な三つの実りを結ぶはずです。  
1)悔い改めにふさわしい実を結ぶ(マタイ38)。悔い改めは、悪に背を向けて、神様に向き直る、という意味があります。真の悔い改めは、ただ感情的に悲しむのでなく、生活そのものが本質的に変わることであり、その真実を証明する実りがなければなりません。  
2)御霊の実です。 これはキリスト者に与えられる、聖霊様による品性の実です。「愛、喜び、平安」は、キリスト者の神様に対する態度であり「寛容、親切、善意」は、他者に対する態度であり「誠実、柔和、自制」は、自分自身に対する態度です。そしてこの全部が、御霊に導かれたキリスト者の生活に現れる当然の産物、すなわち「御霊の実」なのです。
「御霊に満たされよ」(エペソ518)「御霊によって歩みなさい」(ガラテヤ516)と命じられているのです。  
3)福音の実です。(コロサイ16) 福音を理解し、受け入れて実を結ぶ。そしてそれを、他の人々に伝えて、実を結ばせていくところに、宣教の拡大と教会の成長もあります。
 
10節、預言者たちの模範について聖書は言います。 山上の説教でイエス様は、迫害に打ち勝った模範として、預言者たちを挙げられました(マタイ1012)。 預言者は、神様のみ心に従っても苦難に遭いました。主の弟子たちは、イエス様の名によって、神様の言葉を述べ伝えて、迫害されました。忍耐と共に忠実さがそれをさせたのでした。 イエス様も、父なる神様に全く従順であった結果、その歩まれた道はゴルゴダの十字架への道でした。
 今日、世界で最も急速に宣教が拡大し、教会が成長しているところは、共産圏の抑圧されている中だそうです。彼らは、困難な中で、命をかけてキリストを証しています。私たちも、預言者たちのように、神様の声を聴き、御顔を仰ぎ、神様の御手に守られて、忠実に仕えたいものです。
 
次に、11節、12節で、ヨブの忍耐を聖書は語ります。
ヨブは非常に忍耐強い人でした。彼の波瀾万丈の生涯を見てみると、彼が自分の身に起こったことに対して情熱を傾けて抵抗し、友人たちの、いわゆる月並みで正統的な議論に、情熱的に問いただし、神様が自分を忘れ見捨てられた、のではないか、という恐ろしい考えに、身を震わせて苦悶したことを見ることができます。 ヨブは、悩みに満ちた質問を神様にぶつけましたが、神様への信仰を失うことはありませんでした。「見よ。神が私を殺しても、私は神を待ち望む」(ヨブ1315)。 「私は知っている。私を贖う方は生きておられる」(ヨブ1925)。 ヨブの忍耐は、受動的で盲目的な複縦ではありません。疑いと悲しみと悲惨の波に、大胆に立ち向かい、信仰に敵する勢力より、さらに強い信仰を確保することのできる勇敢な精神です。 
ヨブはそのようにして、「主が彼になさったことの結末を見たのです。主は慈愛に富み、あわれみに満ちておられるかが、わかるはずです」(ヤコブ511
 (結論)成熟したキリスト者の慰めは、主ご自身であり、主がすべての報いとなってくださるということなのです。「死に至るまで忠実であれ。そうすれば、命の冠を与えよう」(黙示録210)                
(参照「イエスから目を離さないでいなさい」有賀喜一著)

2020年5月3日日曜日

2020年5月3日
主日礼拝メッセージ
水島ナザレン教会 牧師:滝本文明
主 題  「神・失敗・チャンス」   申命記9章8~10章2節
 皆様、おはようございます。私も家内も元気でおりますが、皆様ご家族の方々は、健康面などお変わりございませんか? 教会礼拝堂での主にある兄弟姉妹との礼拝が、出来なくなりました。しかし私は、いつものように講壇から主のみ言葉を語っている気持ちで、今週もこの礼拝メッセージ原稿を書いています。皆様も、いつもの姿を想像しつつ原稿から、主のメッセージを受け取ってください。
4/29水曜日の時点ですが、「米国のコロナ感染者、100万人を超え、死者5万8千人で世界最多」、とのインターネットの記事が出ています。歴史を変えるような感染症が日本を含め、世界中に、これからも広がりつつあります。お互いに気を付けましょう。
 
さて、今日の箇所は、イスラエルのそむきと、モーセのとりなし、その背後に神さまの恵みが示されています。モーセは、「イスラエルはカナン(現イスラエルの国)の先住民を追い払って、その土地を所有するが、その時、決して自分たちが正しいから、その土地を得たなどと思ってはならない」と、さとしました。そして彼らは、神さまに逆らい通した「うなじ」のこわい民であることを、よく覚えておくようにと命じました。
6節の「うなじ」は、首の後ろ、襟首の部分を指す言葉でイザヤ484節では、「首筋」と訳されています。「うなじが固い」とは強情なことで、頑固なことを表現し、くびきを着けられることを拒み、首を立て、うなじを固くして、抵抗する牛のしぐさから来ていて、神さまへの不従順を表現しています。確かに彼らは、出エジプトからここに至るまで、主に逆らい通しでした(7節)。 しかし、主が彼らを祝福されたのは、彼らに対する神さまの愛と、先祖たちに対する誓いのためなのです(5節)。

 前後しますが、1節「聞きなさい」、3節「知らなければならない」と、モーセがここで命じていることは、「主の恵み」と「自分たちの罪」、この二つを、はっきりと自覚しているべきことです。
イスラエルは、彼らが正しかったから、カナンの土地を得たのでなく、彼らの度重なる、そむきの罪にもかかわらず、カナンの先住民が悪かったから主が彼らを追い出されたことと、主が先祖たちに誓われた約束に忠実であられたから、イスラエルがカナンの土地を得ることが出来ましした。 また、25節から29節にありますように、モーセのとりなしによって滅びを免がれたことであり、そして、それらはすべて主の恵みによること、を十分に自覚するべきでした。
 私たちも、私たちが正しいから、まだ少数派である日本のクリスチャンが、日本の中でも先に救われたのは、私の罪にもかかわらず、神さまの御愛により、イエス様の十字架の贖いによって救われたことを、心にとめたいと考えます。
 10章12、13節で、モーセは一つの結論を述べています。それは、主があなたがたに求めておられることは何か、ということです。それは、ただ、あなたの神、主を恐れ、主のすべての道に歩み、主を愛し、心を尽くし、精神を尽くしてあなたの神、主に仕え、あなたのしあわせのために、私が、きょう、あなたに命じる主の命令と、主のおきてとを守ることです。主が求めておられることは、あれも、これも、守り行うということではなく、「ただ」です。 ただ、神を畏れ、神のすべての道に歩み、主を愛し、心を尽くして、精神を尽くして、あなたの神である主に仕え、主に従うことです。 
私たちはどちらかというと、「ただ」というよりも、「あれもして」「これもして」神さまのためにいろいろなことをして、神さまを喜ばせることが、主のお喜びになられることではないかと思うのですが、聖書はそのようには教えていません。主が求めておられることは「ただ」なのです。それは、主を恐れ、主の道に歩み、主に仕え、主を愛します。
ミカ書にも似たような御言葉があります。「私は何をもって主の前に進み行き、いと高き神の前にひれ伏そうか。全焼のいけにえ、一歳の子牛をもって御前に進み行くべきだろうか。主は幾千の雄羊、幾万の油を喜ばれるだろうか。私の犯したそむきの罪のために、私の長子をささげるべきだろうか。私のたましいの罪のために、私に生まれた子をささげるべきだろうか。主はあなたに告げられた。人よ。何が良いことなのか。主は何をあなたに求めておられるのか。それは、ただ公義を行ない、誠実を愛し、へりくだってあなたの神と、共に歩むことではないか。(668)」
神さまの民イスラエルのかたくなさ、驚くべき罪の深さがこの章に表されています。神さまの民が、偶像礼拝に陥ったのです。しかも、今も生きている律法、十戒をさずかっている最中にです。モーセは激しく怒り、十戒の2枚の板を、たたき割りました。神が「御自分の宝の民とされた」(76節) イスラエルの民の、驚くべき罪の深さが露呈したからです。しかし、その民のために、モーセはとりなしの祈りを献げました。このモーセの、とりなしの祈りは、キリストのとりなしの、ひな型です。 モーセがそうであったように、私たちには、恵み深い契約の仲保者イエス・キリストがおられます。「たとえ罪を犯しても、御父のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます」(1ヨハ21節)。父なる神さまの右の座におられるキリスト・イエスが、私たちのために、とりなしの祈りをなさっておられます。
 神さまは、失敗しても、もう一度立ち上がれるようチャンスを与えてくださいます。モーセの祈りを聞かれた神さまは、金の子牛を拝んで契約を破棄したイスラエル人を罰することをやめられ、10章1~2節にあるように、「前のような石の板二枚」に再び十戒を書き記してくださいました。それは背いた民を赦し、再び契約を結んでくださる、神さまのあわれみでした。
 一方、神さまは偶像を造った張本人であるアロン(出エジプト記32:1~5)の使命が終わると、大祭司職を彼の子、エレアザルが受け継ぐようにされます。 契約の箱を担いで、神さまの前で仕える、レビ族の相続は、土地ではなく神様です。 イスラエルは、神さまの寛容と忍耐の中で、カナンに向かって進み続け、ついに約束の地を占領することになります。
神さまは、今日も、永遠の大祭司であるイエス様を通して契約を真実に果たされます。
 
 最後に祝福のためにという題で、次のような話を見つけました。
 
 学業に優れている、ある青年がいました。彼は大学卒業後、アメリカに渡り、ハーバード大学で博士課程にまで進み、富と名誉、将来が保証された道を、目前にしていました。ところが、いつからか、彼の心に葛藤が生じ始めました。
「あなたは、わたしのために、福音を伝えるために、出て行かなければならない。」という主の御心が示されたのです。
 彼の心の中では、主のために福音を伝えなければならない、という思いと、学位を取得して帰国した時に受けるであろう、安定した将来をあきらめたくない、という思いとの間で葛藤が起こりました。
 しかし、結局彼は、主が示されたとおり、宣教のために海外に出て行きました。主のみ心に従ったとき、彼の心の葛藤は消えてなくなり、生きる喜びと平安で満たされました。
 今日、多くのクリスチャンが、天の祝福を受けられないのは、主の御声を無視するか、聞こえても聞こえないふり、をしているからです。主が私たちに、使命を与えられる目的は、苦しみを与えたり、損をさせたりするためではありません。主は、私たちを祝福したいのです。主のみ心が示されたとき、私たちが従うなら、世では得ることのできない平安と祝福を経験することが出来ます。