2020年5月31日
ペンテコステ礼拝メッセージ
水島ナザレン教会 牧師:滝本文明
主 題 「主の平安・聖霊降臨」 ヨハネ14章25~27節
皆様、お早うございます。主の守りの中、お元気で与えられた使命に活かされておられることを信じ、感謝いたします。新型コロナ第一波は、日本では収束しつつありますが、北海道や他国では、第二派が起こっています。まだまだ気をぬいてはいけません。礼拝堂では、3密状況下に置かれています。注意して礼拝を捧げましょう。
さて、本日5月31日はペンテコステ、つまり聖霊降臨の日です。世界中の教会はクリスマス、イースターと共にこの日も大切な日として祝ってきました。それは神の聖霊が特別の仕方でキリストの教会に与えられたという出来事です。しかしこの聖霊降臨ということに関しても、昇天と同様にマタイ・マルコ・ヨハネの福音書には記されておらず、ルカのみが福音書の続編としての使徒行伝に書き記しています。ルカによる福音書の主人公がイエス様だとすると、使徒行伝の主人公は聖霊様であるといわれ、使徒行伝は聖霊様の福音書であるという人もおります。つまり、ペテロやパウロという使徒たちの活躍も聖霊様の働きによって達成されたわけで、聖霊行伝ということもできます。
聖霊様は、旧約聖書において、すでにダビデ王の口を通して語っています(使徒行伝1章16節)。また聖霊様は、預言者イザヤを通して語っています(同 28章25節)。そしてステパノは、ユダヤ人が歴史を通して、いつも聖霊様に逆らってきたと非難しています(同7章51節)。聖霊様は、あらゆる時期、あらゆる時代で神様の真理と神様のみこころを啓示されます。
つまり聖霊様というのは、神さまの働き、神さまの現臨の説明であり、聖霊論の意味は、神さまの働きかけの、分かりやすい説明と考えてもいいでしょう。神さまは永遠に、父、子、聖霊なる方なのです。しかし、ペンテコステの日に特別のことが起きました。この日に、神さまの霊がイエスの名において集まっている人々の上に、天から下って来られたのです。それまで風のように静かに、人々の上に吹きつけていた神さまの霊が、この瞬間から初代教会を支配する実在の原動力となったのです。旧約聖書の時から働いていた神さまの働きが、この日に、特別な仕方で下ったのです。この聖霊の神学を、ルカは独自の仕方で展開したということができます。
キリストさまの十字架と、復活と、昇天を、経過したあとの日に、一つの家に集まっていた弟子たちに、共通する特別の体験が、与えられたのです。それは、この日に神さまの霊が新しくいっそう力強く、自分たちの中で働いているのだ、という強烈な体験でした。その出来事をルカは神話的な書き方で伝えています。
この聖霊様の降臨により弟子たちは、それまでの耳で聴く者から、口(舌)で語る者へと変わったのです。このときから彼らは、氾濫するいろいろの情報の中から、本当に大切なこと(真理)を聞き分ける力を与えられ、本当に大切なことを語りうる者となりました。
彼らが語った一番大切なこと、それは「神さま」についてであります。旧約聖書に、神さまの霊は風のように吹くとあります。風は目には見えませんが、風とは空気が動くことです。われわれは空気がなければ生きてはいけませんが、時としてそれは台風、ハリケーン、サイクロンなどという大きな力にもなるのです。初代の教会の指導者たちは、聖霊さまに満ち、オーラに満ちた人々だったでしょう。われわれが空気を自然に呼吸しているように、彼らの中に聖霊様が生き生きと活動していたのでしょう。
聖霊様というのは、神さまの力が風のように、空気のように、いま私の中に働いているということです。それがイエスさまの十字架、復活、昇天のあとに、それ以前よりもさらに力強く働き始めたということでしょう。これは、いまも神さまが2000年前と少しも変わらずに、風のように働いておられるということを教えてくれる話なのです。中東の砂漠などを旅していますと、風で砂が回転する柱のように竜巻となって現われ、動き回るのを見ることがあります。そのように、彼らは神さまの力強い働きを見ることができたのかもしれません。
また、このペンテコステの出来事は、旧約聖書創世記11章のバベルの塔において、神様の罰として世界中の人間の言葉が混乱(バベル)してしまったことへの回復ということができます。キリストの十字架、復活、昇天のあとに、新しい形で与えられた聖霊さまの働きによって、世界の人々の心は再び一致することができるのだ、というメッセージです。
ヨハネ14章の26節から読みます、「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によって遣わされる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、またわたしが話しておいたことを、ことごとく思い起こさせるであろう。わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる。あなたがたは心を騒がせるな、またおじけるな」。
1)弁護者となって下さる聖霊さま(助け主)
ペンテコステの出来事が起こったとき、聖霊様が弟子たちのところに下りました。そこで与えられた聖霊様は、主が予告されたものでした。
主は「助け主(弁護者)、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊」と言われます。「助け主(弁護者)」というのは、「傍らに呼ばれた者」と言う意味で、神が、人間のかたわらに、キリストの名によってよんで下さった聖霊さまという意味です。つまり、助け主(弁護者)であられる聖霊さまは、人間と共に、常に神とキリストさまが、共にいてくださることを現す神さまであるのです。
2)全てのことを教えて下さる聖霊さま(真理の御霊)
私たちの傍らにいてくださる聖霊さまは、父なる神さまとキリストのみ心を、常にわたし達に知らせてくださいます。それだけでなく主イエスさまが、目には見えなくとも、私たちの傍らにいつもいてくださることを、知らせて教えてくださるのです。
また、聖霊さまは、私達を常にキリストさまのもとに、導いてくださいます。それに対してキリストさまから、私達を引き離そうとするのは悪魔(神に対抗する)の力です。
聖霊さまによって、私たちは、キリストに結び付けられ、神さまの御心に、従う生活へと整えられていきます。
「私が話したことをことごとく思い起こさせてくださる」(26節)
また聖書の言葉を、私たちが読もうとするときに、誤った解釈や、独りよがりに読んだりすることがないように、聖霊さまの導きによって、主の本当(真理)の言葉を、理解できるようにしてくださいます。
3)主の平安が与えられます(主の平和)
「わたしは平安をあなたがたに残して行く、わたしの平安をあなたがたに与える。」(27節)
主が与えてくださる聖霊さまは、、私たちに平安を与えてくださいます。主が与えられる平安とは、争いがないとか、けんかをしないと言う表面的なことばかりではなく、主が共にいてくださるところにある平安という事です。平和という言葉でも言い表されます。
聖霊さまは、主が共にいてくださることを、常に知らせてくださる神さまです。従って聖霊さまが私達に、主と共にいることを可能にし、そのことによって、私たちは、平安が与えられるのです。
「わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる。あなたがたは心を騒がすな。またおじけるな。」(27節)
その平安は、主が十字架を通して人間に与えられた神との間の和解(罪の赦し)に基づく魂の平安といえるでしょう。ですから、主イエスによってしか与えられない賜物です。この平安の中に生きるときは、いかなる恐れもないということです。
結 論
ではどうしたら、この主の平安をいただくことが出来るのでしょうか。
使徒行伝2章14節から42節で、ペテロの説教が記してあります。
37節:人々はこれを聞いて、強く心を刺され、ペテロとほかの使徒たちに、「兄弟たちよ、わたしたちは、どうしたらよいのでしょうか」と言った。すると、ペテロはが答えた、「悔い改めなさい。そして、あなたがた一人一人が罪のゆるしを得るために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、あなたがたは、聖霊の賜物を受けるであろう。」
この約束は、私たちにも、私たちの子どもにも、遠くにいるすべての人々にも、つまり、わたしたちの神である主が、招いてくださる者ならだれでも、与えられるものです。ペテロはこのほかにも、いろいろ話をして、力強く証しをし、「この曲がった時代から救われなさい」(40)と勧めました。ペテロの言葉を受け入れた人々は、洗礼を受けその日に三千人ほどが、仲間に加わりました。「一同は、ひたすら、使徒たちの教えを守り、信徒の交わりをなし、共にパンをさき、祈りをしていた」。(40節)
使徒1章8節で、「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」と主イエスさまが言っておられます。
聖霊さまに満たされて、人々が語ったことは、主イエス様を証する言葉です。聖霊さまは、主イエスさまの十字架と復活の出来事を証させ、神さまの御業を語らせる霊なのです。
神さまが聖霊さまによって力をお与えになり、いよいよ地の果てまで、主イエスさまの証言が、宣べ伝えられる時が来ました。いよいよ人間が神さまに遣わされて、神さまの御業に用いられる時が来ました。集まって祈り、備えていた者たちが、語り始めます。
聖霊さまによって誕生した、主イエスさまの救いの業を宣べ伝える共同体、これが、教会の誕生です。ですから、ペンテコステは「教会の誕生日」とも言われているのです。
またこのことから分かるように、教会は聖霊さまによって、力を与えられて、初めて、主イエスさまの救いの御業を、語ることが出来ます。祈りのうちに聖霊さまの満たし、ご支配を求めましょう。