2018年6月24日日曜日

礼拝メッセージ  2018年 6月 24日 
説教題  「天を見つめたステパノ」
聖  書  使徒行伝 第7章54〜60節
(序論)聖霊に満たされたステパノは、天が開けて人の子が神の右に立っておられるのが見えると言いました。人々は彼を町の外に追い出し、石で打ち殺します。ステパノは、主に自分の霊をゆだね、眠りにつきます。サウロ(パウロ)は、それに賛成していました。エルサレムの聖徒は、迫害によってユダヤとサマリヤに散らされます。
 
(本論)ステパノの説教を聞いたユダヤ人たちは、悔い改めるどころか、かえって怒りに燃えました。ステパノが大胆でいられたのは、聖霊に満たされ天に視線を定め、霊の目で神様の栄光とイエス様を見ていたからです。
 イエス様が神の右の座に立っておられるのは、主がご自分を尊ぶ者を尊び、高くあげられるという意味を含んでいます。(上サムエル230 人が神を愛するなら、その人は神に知られています。ユダヤ人とステパノの姿が対照的です。私たちが、福音に敵対する人の前に立つとき、どこに集中すべきかを、この箇所は教えています。 
 世は真理に敵対し、福音宣教を妨げることに熱心です。議員たちはステパノのことばを聞くまいと耳を覆い、彼に殺到して町の外に追い出し、石を投げます。ステパノを処刑することで自分たちの宗教信念を守り、正当化しようとしました。しかし、それは神への愛や熱心から出たものではありません。彼らは神様が遣わされたイエス様を殺した時のように、再び聖霊に逆らって殺人者となったのです。一方、殉教者の霊性は、イエス様に従う者に恵みによって天から与えられ、私たちの魂を永遠に守ってくださいます。主に従う人は、自分を迫害する者さえも赦し、死の前でも屈しません。ステパノの殉教する直前の態度は、ゆえに可能となったのでした。あなたは怒りの石を投げる人でしょうか。ステ パノのような聖霊に満たされた人でしょうか。
 
(結論)自分の心に刺さるみ言葉が示された時、耳をふさごうとする、かたくなな心を打ち砕いてください。石を投げる人を憎まず、聖霊に満たされて許すことが出来ますように。死ぬほど苦しい時に、御座から立ち上がって私を抱いてくださる主に、委ね心に平安をお与えください。

2018年6月17日日曜日

礼拝メッセージ  2018年 6月 17日 
説教題  「孤独から救われる」
聖  書  創世記 第33章1〜10節
(序論)今日のみ言葉は、ヤコブとエサウの会見の場面です。ヤコブは有能な人でしたし、自分の才覚に頼る人でした。神様と格闘して、もものつがいを外され、戦うことも逃げることも出来なくなったヤコブは、神様に頼るほかなく、逃げ隠れせず、ただ神様により頼んで兄エサウに向かい、子ども達を、その母ごとに分けて並ばせ、自分がその先頭に立って兄を迎えました。
(本論)最近孤独を訴える人々がおられます。「友達はいるのに、真の友がおらず私は寂しい」という大学生。「夜、深い眠りから目覚めると、言い知れない孤独感に襲われる」という実業家。「子ども達はみな私から離れて行ってしまった、私は何のために苦労してきたのでしょう」と嘆く初老のご婦人など、若者から老人までみな孤独を訴えています。そこで孤独から救われたヤコブを紹介いたします。ヤコブは妻子もあり、多くの召使いにも囲まれ、多くの財産を持っていた人物でした。しかし、彼は、孤独な人でした。新約聖書のザアカイと似た境遇の人物です。
 私たちが孤独から救い出されるためには、第一に、何が自分を孤独にするのか、その原因をつきとめることが大切です。ヤコブの場合は、兄と父をだまして家督の権を奪い取り、叔父の家で、狡猾な駆け引きにより富を叔父の手からだまし取り、叔父の家を出なければならなくなりました。狡猾な自己中心の罪がヤコブを、孤独へと追いやりました。第二に、神様と独り向かい合う時が大切です。ヤボクの渡しで妻子もみな先に渡して、自分一人で夜明けまで祈り抜きました。ヤコブはその夜、神様に砕かれました。第三に、「あなたの顔を見て、神の顔を見るように思います。」10節、と言って兄エソウと和解したヤコブの喜びです。
(結論)さて孤独から救われるためには、1.孤独の原因をつきとめること。2.自我が砕かれること。3.和解を得ることの大切さを学びます。ヤコブは、行く先々で祭壇を築いています。イサクは、時たま築いて主を礼拝しました。人間的には好ましいイサクより、人間として、いかにもあくどいヤコブが神の民イスラエルの父祖となったのは、ヤコブがいつも主を礼拝し、主のみ手の中で歩み続けたからです。私たちも日ごとのディボーション、毎週の礼拝を大切にいたしましょう。

2018年6月11日月曜日

礼拝メッセージ  2018年 6月 10日 
説教題  「天国に帰る」
聖  書  イザヤ書 第6章4節
(序論)昔の話に「親孝行の孝という字は、子が老人を背負っていたわる姿である」というのがあります。確かに、子が老人になった親を背負っている姿は麗しく、そのような子を持つ老人は心強く嬉しいものでしょう。
 今日の聖書の箇所は、イザヤが、人間に運ばれる偶像の神々と、人間を運んでくださる主なる神様を紹介しています。古代中近東の戦争は、それぞれの国の神々の戦いとされていましたから、戦争に負けると偶像を担いで逃げました。バビロンが打たれ、人々は打ちしおれて、偶像のベルやネボを担いで逃げ、それが彼らの重荷となっている様子が、ユーモラスに描かれています。
(本論)主はこう言われました。「彼らは人が作ったもので、動くことも答えることも出来ず、人を救うことも出来ない。このことを思いしっかりせよ。わたしだけが神である。わたしは初めから終わりのことを告げ、わたしが語ったことは必ず成就する。わたしは東からクロスを呼び、バビロンをさばく。そしてあなた方を救う。その時は、もう近くに来ている」と。
 確かに偶像は人間が作ったもので空しいものです。人間が金銀を用いて作り、肩に担いて運んでやらないと動けず、一旦、据えたらもう動くことが出来ません。偶像に人の願いを聞けるはずもなく、人を救うことも出来ないのは明らかです。偶像は、人間の身勝手な願いがもたらした、実に都合のよい神々なのです。
 これに対して聖書の神様は、「わたしは、イスラエル(あなた方)の生まれる前から彼らを担い、白髪になっても同じようにする。今までもそうしてきたのだ」と言ってくださる神様です。永遠の昔から今まで、今からのち永遠に、いつも主は、私たちを担ってくださいます。親が子を抱くように、父親が子を背負い、時には肩車するように、母親が子を抱くように、主が私たちを守り支えてくださいます。         
結論)そしてパウロは言います。「私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としてお出でになるのを、私たちは待ち望んでいます。……私たちの卑しい身体を、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えて下さるのです」。(ピリピ320-21節)人は、地上のことだけを考えて歩むのでなく、自分の国籍が天にあることを知り確信し、ひたすらキリストを待ち望んで生きるものです。このような人を主は、ご自身の栄光の体に変えてくださいます。

2018年6月3日日曜日

礼拝メッセージ  2018年 6月 3日 
説教題  「栄光の器へ」
聖  書  ローマ人への手紙 第9章20,21節
(序論)神様がモーセを召して、エジプト人の手からイスラエルの民を救い出すように命じられた時モーセは、「わたしは何者でしょう。…ああ、主よ。私はもともと弁が立つ方ではありません。あなたが僕にお言葉をかけてくださった今でもやはりそうです。全く私は口が重く、舌の重い者なのです。」(出エジプト記410〜)といって辞退しました。すると神様は「一体、誰が人間に口を与えたのか。一体、誰が口をきけないようにし、耳を聞こえないようにし、目を見えるようにし、また見えないようにするのか。主なる私ではないか。さあ、行くがよい、この私があなたの口と共にあって、あなたが語るべきことを教えよう。」と励まされました。
(本論)私たちが劣等感に悩むときは「恥じなくてもよいものを恥ずかしく思い、恥ずべきものを恥じない、歪んだ的はずれな心だ」と言った人がいます。確かに私たちは、恥じなくてもよい小さな欠陥に悩む者です。
 例えば、目が見えない人よりも、やぶにらみ(片方の視線は合っているが、片方の目が外側を見ている、斜視のこと)の人の方が劣等感に悩みやすく、肺炎や結核で胸を患っている人より胸の小さい人の方が劣等感のとりこになります。また鼻の低さや色の黒さ、身長の低さ高さ、などちょっとしたことの方が劣等感の種になるのです。では人はいつ劣等感から解放されるのでしょうか。
 第一に、自分が神様によって造られた者であることがわかった時でしょう。前記の神様とモーセの会話から、人を造られた神様を仰いだ時、人と比べるのを止め劣等感から解放されます。
 第二に、造り主なる神様の大能のみ手に自分を委ねる時です。「陶器を造る者は、同じ粘土から、一つを貴い器に、一つを貴くないことに用いる器に造る権威があるではないか」ローマ人への手紙9:20とあります。造り主なる神様は、人を造り変える力、権能があります。かつて主は、シモンをペテロと呼ぶことにする、と言われ、臆病で波のように揺れ動く弱いシモンという漁師を、ペテロという岩のような不動の初代教会の指導者に造り変えられました。         
(結論)もう自分の欠陥や無能力を、恥じ入る必要はありません。人を造り変える権能を持っておられる神様に委ねる時、神様は無限の可能性を引き出してくださり、栄光の器へと造り変えてくださいます。