2021年3月30日火曜日

礼拝メッセージ 2021年3月28日
説教題 「主イエス様のとりなし」
  書  ルカによる福音書23章32~38節
(序論)今週は、受難週です。イエス様の十字架上の言葉に耳を傾け、み言葉に聞きたいと思います。
(本論)今日の箇所には、様々な人間が出てきます。イエス様を殺したくて、それが実現して、勝ち誇った態度を取る権力者たち、彼らは「他人は救った、もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」そう十字架上の、イエス様をあざけります。権力者に扇動されて「十字架につけろ」と叫んだ民衆は、ゴルゴダまでの道、ビアドロローサ、苦難の道、悲しみの道といわれるところを、歩まれるイエス様に対して、残酷な野次馬となって侮蔑しました。そして、嘆き悲しむ婦人たち、イエス様に代わって、十字架を担がされる羽目になったクレネ人のシモン、ユダヤ人と同様にイエス様をあざける兵士、イエス様と一緒に十字架にかけられる犯罪者たち、などがいます。そして今日の場面には、出てきませんが、恐れて逃げて隠れている、弟子たちもいます。
1)私たちは知らなかった  ところで、愚かなことをしているとき、本人は自分の愚かさに、気づかないということが、往々にしてあります。他の人から見たら、あんなことをしてと、心配されるようなことでも、本人はその時は、気が付かない、そんなことがあります。自分が失敗をしたり、痛い目をしたあと、ようやくその愚かさに気づきます。しかし、だいたいのことは、やり直しがききます。やり直して「あの頃は、ばかなことしていたなあ」と、あとから思い出すことができます。かつての愚かさから人生の知恵を重ねて行くことで失敗を防ぐことができます。
2)恵みに生かされる  私たちは、神様を殺すという、取り返しのつかない、ことをしたにも関わらず、恵みのうちに生かされているのです。主イエスの「父よ、彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか、わからずにいのです。」という言葉のゆえに、恵みのうちに生かされています。本来、取り返しのつかないことが、取り返せるように、イエス様は言われました。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と。神様を殺した私たちが、イエス様の父なる神様への、とりなしの祈りのゆえに、そして、イエス様が、十字架で神の怒りを受けてくださったゆえに、赦されました。そして恵みを受ける者とされました。
(結論)主イエス様の、とりなしのうちに生かされる
 私たちは、今も主イエス・キリストの、とりなしの祈りのゆえに、生かされています。私たちが、罪と知って犯す罪も、知らずに犯す罪も、イエス様は、とりなしてくださっています。イエス様のとりなしのゆえに、取り返しのつかないことはなくなったのです。
私たちは、いつでもやり直すことが出来ます。繰り返し失敗しても、繰り返し信仰が揺らいでも、私たちは立ち上がって、やり直すことができます。神様の恵みを知らなかった私たちは、絶えることのない神様の恵みを、受けることができます。

2021年3月21日日曜日

礼拝メッセージ 2021年3月21日
説教題 「いのちの道・祝福の道」
  書  マタイによる福音書26章36~39節
(序論)イエス様は、ゲッセマネに入って行かれて、弟子達の中から、ペテロとゼベダイの子、すなわちヤコブとヨハネの三人を連れて、園の奥に入って行かれました。
(本論)その時、突然主は「悲しみもだえ始められた」とあります。しかも「私は悲しみのあまり死ぬほどだ」と言われました。今まで気丈に弟子たちに福音を教えられ、多くの奇跡を行いながら、ここに来て急に悲しみ悩み始められました。しかも三人の弟子の前で。一体何が起こったのでしょうか。
1)神の思いに自分の思いを従わせる  イエス様はこう祈られました。「わが父よ、もしできることでしたら、この杯をわたしから過ぎ去らせて下さい。しかし、わたしの思いのままにではなく、御心のままになさって下さい」と。この神の怒りの杯を、自分が身代わりに受けなければならいと言うことです。本来ならば罪人の私たちである人間が、受けなければならない、神の罰です。それを御自分が、受けなければならないと言うことの厳しさです。たとえそれが自分の使命だとしても、できればその苦しみの杯を飲まなくてもいい道を示して下さいと祈られました。この苦しみと孤独を経験しなくてもいいようにして下さいと願われたのです。
「御心のままに」という祈りは、この杯を受けますと言うことです。自分の思い、自分の願い、自分の願望ではなく、神様の御心のみが、なりますようにという祈りです。自分を委ね、神に明け渡す道です。たとえその道が苦しみと悲しみの道であっても、必ず神様はプラスにして下さると信じて踏み出す道です。なにがあろうとも、苦しみ、攻め、重荷、犠牲があっても、神様が望むのでしたら、その道を取りますと言うことです。逃げるのは致しませんと言うことです。この苦しみの杯を遠ざけてください、と言う願いではなく、その苦しみの中に、その苦しみを通してさえも、主はその先に、光と希望の道を備えて下さると信じる事ではないでしょうか。
 
2)祈りは、大胆に立ち向かう力  それから、弟子たちのところへ戻ってご覧になると、彼らは眠っていたので、ペテロに言われた。「あなたがたは、わずか一時もわたしと一緒に目を覚ましておられなかったのか。誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えていても肉体は弱い。」 彼らは、わずか一時も目を覚ましていられませんでした。と言うことは、おそらくすぐに寝込んでしまって、イエス様が祈っておられる間中彼らは、ぐっすりと寝ていたと言うことです。誘惑に負けてしまっていました。しかも三回もイエス様が戻って来て起こしたにもかかわらず、三回とも眠ってしまっていたのです。何ともふがいのない弟子たちでした。「心は燃えていても肉体は弱い」とありますので、信仰はありました。ところが肉の力が強くても、心の方が負けてしまうのです。
(結論)しかしイエス様は、ご自分を捕らえに来る人々を堂々と迎えられます。祈りは試みに対して、大胆に立ち向かう力を与えます。

2021年3月14日日曜日

礼拝メッセージ 2021年3月14日
説教題 「祈り・平安・希望・確信」
  書  ヨハネの第一の手紙5章14~15節
(序論)祈ることは、本当は楽しいことです。しかし、それは決して楽なことではありません。祈りの必要性は分かっていても、なかなか祈りの時間は、持てないのが事実です。しかし、キリスト者を造るものは、祈りです。
(本論)私たちが、信仰生活を続ける上で、よく受ける攻撃は、祈りに関することです。すなわち、「祈ったって無駄だ、何の意味もない」ということです。悪魔はあなたの耳元で、こうつぶやくでしょう。
1)何事でも  ところで、ここには「何事でも」とあります。私たちは祈るとき、「こんなことを祈っても大丈夫だろうか」とか、「まさかこんなことは聞いてくださらないだろう」と思い、祈ることを躊躇してしまうことがありますが、ここには「何事も」とありますから、何事でも祈ることが大切です。ヤコブは、「あなたがたの、ものにならないのは、あなたがたが、願わないからです。」(ヤコブ4:2)と言いました。私たちは、自分で何とかしようとして、神様に祈らないことが多いのです。 しかし、何事でも神のみ心にしたがって願うなら、神は聞いてくださるということ、それこそ、神に対する私たちの確信なのです。
しかし、ここには一つだけ条件があげられています。それは「神のみ心にしたがって願うなら」ということです。「ほらみなさい。やっぱり無理じゃないですか。だって、神のみ心にしたがって願うならと言われても、神のみ心が何だか、さっぱり分かりません。」神のみ心だと思って祈っていても、結局のところ、自分の思いで祈っているということが結構ありますから。「神のみ心にしたがって願うなんて無理ですよ。」と、考えます。ですから、祈らなければならないのです。そのようにして祈るなら、少しずつ神のみ心が分かってくるからです。
 
2)最善の結果  15節。ここには、「私たちが願うことは、何でも神が聞いてくださると分かるなら、私たちは、神に願い求めたことをすでに、手にしていると分かります。」とあります。どういうことですか? 私たちが願うことは何でも神様が聞いてくださると、いうことが分かるなら、それはもう叶えられている、ということです。もちろん、これは私たちの要求が、何でもその通りになるということではありません。そうではなく、神に願ったら、神は最善の結果に、導いてくださる、ということが分かるので、安心して結果を、ゆだねることが出来るという意味です。
(結論)ヤコブは「疑わずに、信じて願いなさい」(ヤコブ1:6)と言っていますが、これも神様との信頼関係を示しています。神様は私たちの父です。父であれば自分の子どものことを愛していて、子どもが必要としているものを与えてくれます。でも有害なものは与えません。良いものしか与えないわけです。私たちがその良いものを神様に求めるなら、その求めたことは何でも、神様は与えてくださいます。

2021年3月7日日曜日

礼拝メッセージ 2021年3月7日
説教題 「時機を得た助け」
  書  ヘブル人への手紙4章14~16節
(序論)今日のみ言葉の「大祭司」というのは、私たち日本人にはあまり馴染みのない言葉ですが、ユダヤ人たちには、よく知られた名称でした。それは、神様と人を結びつける働きをする人のことで、神様との仲介者のことです。
 
(本論)イエス様は、私たちの罪の贖いを成し遂げて、神の右の座に着き、そこで私たちのために、とりなしていてくださいます。「罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなして、いてくださます。」(ローマ834
1)弱さを思いやる方  「この大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです」(改訳)。 ここには、私たちの大祭司についてもう一つのことが言われています。それは、私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではない、ということです。私たちが苦しむとき、その苦しみを十分に理解し、同情することがおできになられます。それはもう他人事ではありません。自分の痛み、自分の苦しみ、自分の悲しみとして、共に負ってくださるのです。
 聖書に「良きサマリヤ人」の話があります。彼は、旅の途中、強盗に襲われ死にそうになっていた人を見ると、かわいそうに思い、近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、自分の家畜に乗せて宿屋につれて行き、介抱してやりました。次の日、彼はデナリ硬貨を二つ取り出し、宿屋の主人に渡して言いました。「介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。」
このサマリや人はなぜこのようなことができたのでしょうか。それは、この傷つき、苦しんでいた人の隣人になったからです。彼は傷つき、苦しんでいた人を見たとき、とても他人事には思えませんでした。それを自分のことのように感じたのです。だから彼はそのような行動をとることができたのです。それはイエス様も同じです。
2)時機を得た助け  旧約聖書の時代には、だれもが神に近づけるというわけではありませんでした。近づくことが出来ないお方です。 神に近づこうものならば、たちまちにして滅ぼされてしまいました。神に近づくことが許されたのは神に選ばれた大祭司だけで、しかもそれは一年に一度だけのことでした。しかも大祭司にも罪があったので、彼が神の前に出る時にはまず、自分自身と家族のために、いけにえ、をささげなければならないという、念入りさが求められました。
けれども、今は違います。今は神の御子イエス様が、完全ないけにえ、として十字架で死んでくださり、私たちのすべての罪を贖ってくださったので、はばかることなく、大胆に神様に近づくことが、出来るようになりました。
(結論)私たちは、このような偉大な大祭司を持っているのです。それだから、私たちは自分の弱さの中に留まり続けるのではなく、そこから一歩踏み出して、神様に近づくことができるのです。ですから苦しい時は「神様、助けてください」と叫び求めるべきです。

2021年2月28日日曜日

礼拝メッセージ 2021年2月28日
説教題 「恐るな!元気を出せ!「安心せよ!」
  書  ヨハネによる福音書16章28~33節
(序論)今日の箇所は、イエス様が弟子たちに「今、語っている事柄は、弟子たちがつまずくことのないためであり、後に思い出すためだ。」と語られ、「しばらくすると、私を見なくなる」と言われ、いぶかる弟子たちに20節「よくよくあなたがたに言っておく。あなたがたは泣き悲しむが、この世は喜ぶであろう。あなたがたは憂えているが、その憂いは喜びに変わる」と語り、ご自分の死と復活を予告されました。
(本論)弟子たちは、主を信じると告白したのに、主は、彼らがご自分を見捨てて逃げ去ることを示し、しかし、「私が世に勝ったのだから勇敢であれ」と彼らを励まされました。力強い、慰めに満ちた言葉です。
1)平安を得るために  第一に、イエス様がこれらのことを語られたのは何のためかということです。それは、彼らがキリストにあって平安を得るためです。33節「これらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を得るためです。」「これらのこと」とはどんなことでしょうか。それは、イエス様が、弟子たちに語られた全てのことです。これらのことを弟子たちに話されたのは、彼らが主にあって平安を持つためでした。そして、ご自分が十字架で死なれることと三日目によみがえられること、そして、聖霊として来られることの悲しみと喜びを、女性の出産のたとえで語られました。女性は、子を産むとき苦しみますが、子を生んでしまうと、一人の人が、世に生まれた喜びのために、その激しい痛みを、もう覚えていません。そのように、悲しみは喜びに変わります。人なるイエス様は、いつも弟子と一緒にいることが出来ませんが、天に昇られ聖霊が注がれると時間と空間の制約を超えて、いつでも、どこでも、全てのクリスチャンと一緒にいることが出来ます。私達は、今この恵みに与かり聖霊なる神さまと一緒に歩むことが出来るのです。ハレルヤ!
2)しかし、勇気を出しなさい  イエス様は、ご自分を裏切る弟子たちを受け入れ、彼らが戻って来ることが出来るように道を備えてくださったばかりでなく、彼らに勝利の力も与えてくださいました。ここには、「世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。」とあります。この言葉は、この世を生きるすべての人が聞かなければならないメッセージです。なぜなら、私たちは世にあっては苦難があるからです。「しかし」です。ここには、「しかし、勇気を出しなさい。」とあります。 この「しかし」という言葉はとても小さな言葉ですが、この言葉の中には、神の大いなる決意が込められています。イエス様は、私たちが「しかし」と言わなければならない現実があることをよく知っておられた上で、勇気を出しなさいと言われたのです。
(結論)イエス様は、私達の弱さをご存じの上で、私達が苦難に遭う時、「共にいるから、代わって戦うから」「勇気を出しなさい」と言われます。

2021年2月21日日曜日

礼拝メッセージ 2021年2月21日
説教題 「重荷・降ろそう・贈り物」
  書  マタイによる福音書112830
(序論)「休むことが出来ない」これは、現代の私たちにとって、最も切実な問題の一つです。以前から今でも「過労死」ということが重大な問題として取り上げられています。「休むことが出来ない」という問題は、時に私たちの命にも関わるものともなります。外国語にはもともと「過労死」に相当する言葉がなかったので、海外では日本語表記で「KAROSHI」という言葉が使われるようになりました。
(本論)《疲れた者》の「疲れる」という語は、もともとギリシャ語では、「苦労して働いた結果として疲れる」という意味をもっているようです。それぞれが、職場で、家庭で、さまざまな場で、懸命に働いてその結果として疲れている。そしてその心と体の疲れを、なかなかとることが出来ないでいる、という現状があります。
1)重 荷  「休むことができない」ということを、別の言葉で表現すると、「重荷を負っている」となります。今日の言葉でも、《重荷を負う者》という言葉がありました。私たちは日々の生活の中でさまざまな重荷を負っているゆえ、「休むことができない」。 「重荷を負う」ということで言いますと、私たちは外から「重荷を負わせられている」部分と、自分で自分に「重荷を負わせている」部分の両面があります。やらねばならない仕事を幾つも課されているとしたら、それは外から「重荷を負わせられている」ということになります。同時に、そのやらねばならない仕事のことを思って、心をどんどんと重くしているとしたら、自分で自分に「重荷を負わせてしまっている」ということになります。
 私達には、罪、恐れ、心労、悔恨、死の恐れ、という重荷があります。イエス様は「重荷を負うて苦労している者、来なさい。休ませてあげよう」と約束しておられます。贈り物は、ただで頂くものです。主が喜んで与えてくださるものを、喜んで受けましょう。借りたり、買い取ったりするのでなく、もったいない贈り物として感していただけばよいのです。
 
2)安 息  第一コリント1013節《あなたがたを襲った試練で、世の常でないものはない。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます》。
ここでは、神さまが私たちに《逃れる道》をも備えていてくださっていることが語られています。言い方を換えれば、「逃げ道」です。立ち向かう、のではなく、逃げる道を神様は、私たちに備えていてくださっている、と語られています。
(結論)イエス様は、「私のところに来なさい。休ませてあげよう。」イエス様は安息をお与えになります。試してみましょう。イエス様以外の希望はみな捨てて神様の言葉を信じ信頼し、御許に行きましょう。安息があなたのものになります。

2021年2月14日日曜日

礼拝メッセージ 2021年2月14日
説教題 「災いではなく、平安・将来・希望」
  書  エレミヤ書29章11節
(序論)この章は、エレミヤが、バビロンに連れ去られた人々に手紙を書いて、彼らを励まし、教えさとしたことが記されています。
(本論)エレミヤは、捕囚の地では、家を建て、畑を作り、結婚して子を産み、そこで増えよ、減ってはならない、と勧めました。そしてこのように預言しています。
「主は言われる。70年の時が満ちると、わたしは彼らをこの所に帰らせる。それは災いではなく、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。その時、わたしに呼ばわると、わたしはあなた方の祈りを聞く。私を尋ね求めるなら、わたしが、あなた方に会う。と主は言われる。」、と。1114節)
1)主の栄光をあらわす使命  主は、捕囚の地で家庭を持ち、仕事に励みその町の繁栄を祈れと語られました。(5-8節) 捕囚の民にすれば、約束の地に帰ることを待ち望むべきなのに異邦の地に落ち着くなどとは、まして憎むべき敵のまちのために祈るなど、とても出来ることではない、と考えるのが当然です。しかし、主は70年後の帰国を予告しながらも、そこに落ち着いて生活するべきことを命じられました。それは彼らが捕囚の地で、衰えることなくかえって力をつけることが出来るため、また、異邦の人々にも祝福を分け与えるためでした。私達の国籍は天にありますが、(ピリピ123) 一時的なこの地でも、家庭を築き、仕事に励み、世の人々に主の恵みを分け与え、主の栄光をあらわす使命があたえられています。
2)主のご計画、災いではなく、希望・将来  「主は言われる、わたしがあなたがたに対していだいている計画は、わたしが知っている」と。 神様が知っていらっしゃるのであって「お前は知らない」と、言われます。 私たちには、分からないのです、明日どうなるのか。 でもその全てのこと、明日のことを知っておられる主が、おられるのです。そのご計画は「災いを与えようというのではなく、平安を与えようとするものであり、将来を与え、希望を与えようとするものである」と。決して、私たちを失望落胆させることではなくて、神様の恵みの中に、神様の御業の中に私たちを、置いてくださるという、こんな素晴らしい神様の御思いなのです。
 しかし、この世での生活には、苦しみがあります。今は苦しみと思えることも、やがてそれは主のご計画の中で生かされ、より良い大きな祝福のもととなることが約束されています。
(結論)私たちの生活の、どの事をとっても神様によらないものは、何一つありません。神様が、私たちに抱いてくださるご計画は、いま事実、着々と行われています。そのことを信じて神様の備えられた、与えてくださった今という時、与えられた健康、与えられた時間を、与えられた財を、神様のものとして喜び感謝して、それを大いに活用させていただきましょう。

2021年2月7日日曜日

礼拝メッセージ 2021年2月7日
説教題 「いたい この方は どういうお方」
  書  マタイによる福音書 第8章23~27節
(序論)今日の箇所は、イエス様と一緒に船に乗っていた弟子たちが、ガリラヤ湖で大嵐にあった時の話です。私たちも病気やいろいろな苦難、また誘惑の嵐にあって、大変な思いをすることがあります。
(本論)さてイエス様は、毎日とっても多忙な仕事をしておられました。人々の病を癒し、悲しむ者を慰め、神の国の福音を語るという日々でした。そこでわずかの船旅の間も、つい疲れが出てうたた寝が始まりました。
①イエス様が眠っておられるというつぶやき。
第一に、主が一緒に船に乗っていてくださる、ということを見失っていたことです。もちろん目では見えました。しかし目の前におられる御方が、自分たちを守って下さり、彼らを絶望の淵に陥れた嵐をも支配される、全能の神、ご自身であられるということを、忘れてしまいました。私たちは激しい危機の中で、この大切なことを忘れやすいのです。しかし私たちが一時的に忘れてしまっても、イエス様は私たちのことを忘れられたりはなさいません。かえって嵐のただ中で、私たちを守り、道を開きたもうお方です。
②第ニに問題となるのは、「主よ、助けて下さい。死にそうです」(8章25節)といったことです。もう「自分たちは神様から見捨てられた」、嵐が一身に襲いかかって来た、もう絶望だ、このように考えました。無理からぬ状況で、私たちもこのような時には、同じありさまとなることでしょう。しかしどんなときにもイエス様と共にあるなら、決して滅びることはない、絶望はないのですイエス様が「風と荒波とをおしかりになると、静まってなぎになった」のです。弟子たちは不安と絶望の中で、イエス様の全能のカと、イエス様が与えてくださる平安を目のあたりに経験しました。そして「この方は、どういう人なのだろう。風も海も従わせるとは」と、告白しました。
(結論)今日、日本は、いや世界中が、コロナウイルスという疫病により、死の不安、恐怖、それから来る経済的危機に陥っています。この中、嵐の中に漕ぎ出していかなければなりません。 このガリラヤ湖での出来事から30年ほど後に、この福音書は書かれました。当時の初代教会も、大きな嵐の中にありました。教会は、外からは迫害や誘惑、内からは間違った教えに悩まされていました。教会は内と外ともに、嵐にほんろうされていたのです。一見イエス様は眠っておられ、教会という小舟は、イエス様もろとも沈んでしまうかに思われました。しかし決してそのようなことはありませんでした。そういう中でこの記事が書かれ、そして読まれて来ました。
嵐の中にある人々に、この個所は、何世紀に渡りイエス様を、見つめさせました。そして人々に、イエス様からの勇気と希望を与え続けました。今こそこの御言葉を通して、イエス様の信仰に与かり希望を頂きましょう。

2021年1月31日日曜日

礼拝、信徒による奨励メッセージ 2021131
説教題 「あなたは神の最高傑作」
  書  エペソ人への手紙2章10節
(序論)信仰は本来、楽観的ですべてのことに肯定的。
 聖書には、「いつも喜んでいなさい。」「すべての事について感謝しなさい。」(テサロニケ人への第一の手紙516-18)とあります。神様は、恵みに満たされている時、祝福されている時、喜びなさいと言っておられるのではなく、いつも、喜びなさいと言っておられます。苦難の中にいる時も、人に裏切られている時も、どんな時も喜びなさいと。果たして、人間はどんな時でも、苦境の中でも、喜ぶことができるのでしょうか?
(本論)何故、創造主である神様は、人間にわざわざ苦難を与えられるのか?
フローレンス・ナイチンゲールは、彼女の名著「看護覚え書」で、「すべての病気は、その経過のどの時期をとっても、程度の差こそあれ、その性質は回復過程である」と記しています。彼女は、つらい病気も、回復過程であると言うのです。
私たちキリスト者にとって、苦難は神からの祝福の過程なのです。だから、いかなる苦しみをも喜んで受け入れることができ、感謝なのです。
「神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。」(ローマ人への手紙8:28
「すべてのこと」、良いことだけではなく、苦しいこと、悲しいことも、あらゆることを通して、私たちの「益」としてくださるのです。苦難は神様の私たちへの「祝福の過程」なのです。
②わたしたちは、神様の作品、神様が造ってくださった傑作。
わたしたちは、神の作品であって、良い行いをするように、キリスト・イエスにあって造られたのである。神は、わたしたちが、良い行いをして日を過ごすようにと、あらかじめ備えて下さったのである。」(エペソ人への手紙2:10
 全知全能の神様が、人間をご自分に似たものとして創造されただけでなく、私たちと共にいてくださり、万事を益としてくださるのです。ですから、いつも喜ばないでおられるでしょうか、すべてのことに感謝しないでおられるでしょうか。
(結論)神の作品である私たちは、いつも喜んでいましょう。絶えず祈りましょう。すべての事について感謝しましょう。神様が万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っているのですから。

2021年1月25日月曜日

礼拝メッセージ 2021年1月24日
説教題 「災いからの守り」
  書  詩篇91篇1~11節
(序論)現在、全世界は新型コロナの脅威にさらされ危機感でいっぱいです。こんな時こそ、私たちは神様に求めましょう、神様の憐み、導き、守りを。
(本論)1節に「神のもとに身を寄せて隠れ、全能の神の影に宿る人」これは信仰がある者は、こうすれば心の中に平安がありますと聖書は語ります。 6、7、10節に災難、疫病、病魔など記載されています。神様を信じている方々は、災いがあっても、その災いから抜け出ることが出来ます。
1)災いからの守り 34節)「全能者の陰」というのは、親鳥が自分の羽の下に雛鳥を守る姿を指しています。4節に「主はその羽をもって、あなたをおおわれる。あなたはその翼の下に避け所を得るであろう」と言われています。
山の麓にある農場に山火事が襲ってきました。火事がおさまってから、お百姓さんはまだ火がくすぶっている農場の火を消して歩きました。向こうに何か黒いバレーボール位の黒い塊があるのに気づきました。近寄って見ましたが、何か分からず、ポーンと足で蹴ってみました。すると、中から小さなフワフワした雛(ひよこ)たちが飛び出してきました。黒い焦げたものは、雛(ひよこ)たちを自分の羽の中に覆って隠し、身代りになって焼け死んだ勇敢な雌鶏(めんどり)の姿でした。焼け焦げた雌鶏(めんどり)の姿を見ているうちに、お百姓さんの目から熱い涙がポロポロと流れ落ちました。身代りとなって死んだ雌鶏(めんどり)を見て、イエス様の十字架を思い出したからです。
2)主を自分の住まいとする 911
「天使たちは皆、仕える霊であって、救いの相続者となる人々に奉仕するために、遣わされたのではありませんか。」(ヘブル1:14) 
病が近づかないように、神様は、守ってくださる安心感、たとえ、病にかかったとしても、その癒し、救いだしてくださる神様、たとえ、死に直面したとしても、天国という憩いの場を用意してくださる。私たちには、どんなことがあっても、たとえ、死の陰を歩んでも、災いを恐れない安心感があります。
(結論)神様の憐みによって、私たちの病が癒される。それは、同時に、キリストの贖いによって私たちの罪が赦され、永遠の命が与えられる。これ以上の喜びはありません。 コロナ感染症に対して、細心の注意を払って対策を講じることが必要です。その中で、一番忘れてはならないことは、「主が、私たちと共におられる。御翼の陰に私たちをかくまってくださる。たとえ、死の影を歩むとも災いを恐れないこと。主に感謝し、主の御心に従い、私たちのなすべきことに最善を尽くします。」それが、詩編91篇から教えられます。ハレルヤ、主よ、感謝します。

2021年1月16日土曜日

礼拝メッセージ 2021年1月10日
説教題 「明日のことまで思い悩むな」
  書  マタイによる福音書6章31~34節
(序論)人は、不安を抱えて生きています。不安でしょうがない時があります。
そういう時代にあって、どうすればよいのでしようか。
自分の将来の事、人間関係、家族、友人、仕事の事、様々なことで思い悩みます。コロナ禍の現代は特に、将来に対して不安が、まとわりついています。
(本論)「明日のことを思い煩ってはならない。明日のことは明日自らが思い煩う。その日の苦労は、その日だけで十分である。」(新共同訳)
1)神様が導いておられる イエス様は、明日のことを心配するのはやめなさい、と言われました。それよりも、「今日という今この時を、大切にしなさい」と、教えられました。今が大切だというのです。それは、あなたが生きている今日だからです。それくらい、神様にとっては、あなたという存在は、大切な存在なのです。
 あなたが生きている今日を、力いっぱい生きなさいと、神様はあなたが「生きる」ことを喜んでくださいます。なにも一人で頑張りなさい、ということではありません。今も「一緒にいて」くださいます。そして、すべてを「支えてくださる」お方なのですから、安心して大丈夫だよ、と言ってくださっているのです。
 『ありのままを生きる』という本に、次のように書いてあります。
それまでは「生きている」と思っていたのが、実は「生かされている」のであり、すべては、「勝ちとらなければ」から、実はすでに「与えられている」のであることが分かってきた。家族を見つめる目も変わってきた。「あーあって欲しい」「こうあって欲しい」から、「ありのままでいい」、さらには「ありのままがいい」へと。このように見てくると、私たちは偶然でもなければ、進化の結果、生まれてきたのでもない。神の愛につつまれ、選ばれ、尊ばれ、今ここにこうして生かされているのです。
2)身を擦り減らしてしまう イエスは、思い悩む弟子たち、そして私たちに、なぜ「思い悩むな」と言われるのでしょうか。 むしろ、先行きを案じていろいろと思い悩み、でき得るかぎりのことを果たしていくことは当然ではないでしょうか。そのような時に、思い悩むな、と言われれば言われるほど、私たちは素直にこの言葉を受け取ることができないでしょう。 しかし問題は、この思いが悲観的になり、心配になり、「思い悩み、思い煩い」となって、身を擦り減らすまでになって、希望や喜びが取り去られていくような状態になってしまうと、精神と肉体に害悪となることです。積み重ねられた「思い悩み、思い煩い」は、マイナスとなります。あなたの命も、体も、明日という時も、神様から与えられたものだったはずです。今日もそうです。
(結論)だから、「明日のことを思い煩ってはならない。明日のことは明日自らが思い煩う。その日の苦労は、その日だけで十分である。」(新共同訳)のです。
礼拝メッセージ 2021年1月17日
説教題 慰め励まして下さる神
  書  コリント人への第二の手紙1章3,4節
(序論)パウロの一生は、福音宣教のゆえに、波乱万丈の生涯でした。しかし、彼はその患難にあって、いつも、神様の慰めによって強く生かされ、また、主にある教会によって慰め励まされました。
(本論)「私はあなた方を大いに信頼し、大いに誇っている。また、溢れるばかり慰めを受け、あらゆる患難の中にあって喜びに満ち溢れている」(第二コリント74)とパウロは、その感激をしるしています。
1)慰めに満ちた神様  人間は、だれでも何かに、誰かに意識、無意識に「慰め、慰労、慰問、激励」を求めています。しかしキリスト者は、これらを人からだけでなく、父なる神さまから与えられることも知っている者です。
「神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます」パウロは告白します。自分自身が受けた苦しみによって、神から慰めを受けたのです。パウロは、聖書に通じ、イエス・キリストから啓示を受けて福音を知りました。        しかし、その頭だけではなく、自分の経験によっても、神がどのようなご性質を持っているのかを知ったのです。人が受ける苦しみには、大きな目的があります、それは、私たちが、神様を知るためなのです。神の慈愛の豊かさと慰めを知るためなのです。
2)慰めの連鎖  苦難の中で神様の慰めを経験したパウロは、慰めの連鎖「自分から私たちへ、私たちからあらゆる人たちへ」を次のように述べています。
【新改訳】Ⅱコリント書14節に「神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。それで私たちも、自分たちが神から受ける慰めによって、あらゆる苦しみの中にある人たちを、慰めることができます。」
真珠は、貝の中に異物が入ることによって、できた結晶であるように、「慰め」の経験は「どのような苦しみの中にいる人をも、慰めることができる」というのは真理です。
パウロは「私は、使徒の中では最も小さい者であり、神の教会を迫害したのですから、使徒と呼ばれるに値しない者です。ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは無駄にはならず、私は、ほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。」と告白することが出来ました。
私たちも、自分自身が神様から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができます。 私達が受ける苦しみは、神様の慰めによって、他の苦しみの中にいる人々を、慰めるためでもあります。
(結論)主は、慰めの神です。そして、この方は私たちを慰めて下さると共に、私たちを慰め手としても用いて下さるのです。主の慰めを頂きコロナ禍でも平安です。

2021年1月3日日曜日

礼拝メッセージ 2021年1月3日
説教題 主を待ち望む者
   イザヤ書40章2931
(序論)長くクリスチャン生活を送っていると、頭では、神は全能・全世界の支配者・正義のお方と分かっていても、不条理がまかり通り、正しい者達が苦しい目に遭っている現実を見ると、神は生きておられるのか、私達を本当に見ておられるのか、神は裁きを行い給うのか、疑問に思ってしまうことはないでしょうか。
27節に、イスラエル人の不満について、語られています。偉大な神がおられるのに、自分達は忘れられている、神は自分たちの訴えを無視しておられる、「わが道は主に隠れている、わが訴えは、わが神に顧みられない」と。
(本論)1)神様の無限の力(2829)  イスラエルが忘れられているのではなく、彼らが忘れていることがあるのです。それは、神は世界・宇宙の創造者として君臨しておられるだけでなく、私達の人生の微細な点に至るまでの弱さ、悩み、課題の直ぐそばにおられるお方だということです。神はご自身が力強いお方であるだけではなく、その力を私達に分け与えてくださるお方です。主は、「疲れた者には力を与え、精力のない者には活気をつけ」なさいます。つまり、弱さを自覚し、告白し、主により頼む者に力が与えられるのです。
2)主を待ち望むものへの約束(3031)  ・若者さえも疲れる
「(平均的な)若者も疲れ、若い男もつまずき倒れます。」これは、人間の力の弱さ、儚さ、限界を示します。選ばれた人々でもそうならば、まして平均的な人間はもっとだめだといっているのです。若者がそうならば、まして高年齢の者達は、走るのもままならず、歩いては疲れるのが、実感ではないでしょうか。気候的に言っても、特に地球温暖化のためか、年々夏が耐え難くなっていくように思えます。
・主を待ち望むことが、主の力を頂く条件
「永遠の神、地の果てまで創造された方、疲れることなく、たゆむことなく、その英知は測り知れず、疲れた者には力を与え、精力のない者には活気をつける」主を仰いでいる私達には、自然が与える以上の活力・気力・体力が与えられます。私達がそのような新しく力を頂く唯一の条件(カギ)は、「主を待ち望む」ことです。
(結論)アンドリュー・マーレーは、「神を待ち望め」という本の中で、祈りの大切さと、祈りの中に主を待ち望むことの恵みを強調しています。「神に対する待ち望みは、主として祈りの内に行わなければなりません。もし私達の待ち望みが、自然的働きを沈静させることから始まり、神の前に静まり、やがて頭を垂れて、全ての善をなしうる唯一の神の、み業を慕い求め、更に神は私達のうちにも、み業をなそうとしておられるという確信に進む・・・まで待つことができるなら、待ち望みこそ、真に魂の力と喜びとになることでしょう。」と語っています。今週、どこかでキチンと時を取って「主を待ち望む」姿勢を表しましょう。

2021年1月2日土曜日

元旦礼拝メッセージ 2021年1月1日
説教題 「シャローム」主の平安がありますように!
   ピリピ人への手紙4章6~7節
(序論)聖書の中で神様は、私たちに繰り返し繰り返し「大丈夫だよ」と語りかけて下さいます。これほど心強いものはありません。全知全能の神が、そう言われるのですから、これは絶対的です。それでは、なぜ私たちは、そのみ言葉に素直に従えないのでしょうか。 その一つの原因は、今日の、み言葉の冒頭に、書かれていることが原因です。つまり「思い煩い」です。人は思い煩うのが、大好きです。数秒間何も考えることがなければ、私たちの脳は、思い煩い始めてしまいます。
あなたがたのうちだれが、 心配したからといって、 自分のいのちを、少しでも延ばすことができますか。(マタイ6:27と聖書は言います。
(本論)(1)問題を神様に告白する  そういうわけだから、 何を食べるか、 何を飲むか、 何を着るか、 などと言って心配するのはやめなさい。(マタイ6:31
だから、 あすのための心配は無用です。 あすのことはあすが心配します。 労苦はその日その日に、十分あります。(マタイ6:34)あなたがたの思い煩いを、 いっさい神にゆだねなさい。 神があなたがたのことを、心配してくださるからです。(1ペテロ5:7)いくら思い煩っても、問題は解決しません。思い煩いは、私たちのものではありません。イエス様は、十字架にかかって下さった時に、私たちの罪と同時に、思い煩い一切をも、引き受けて下さいました。だから、思い煩いは私たちが持っていては、いけないものなのです。「心配事」が無くなることはありません。
「ほむべきかな。日々、私たちのために、重荷をになわれる主。私たちの救いであられる神。主は私達の荷を担って下さる。」(詩篇68:1)という御言があります。  この表現は、私達は「日々」重荷を持っている、という前提で語られています。私達が地上にいる間、心配事から逃れられる可能性はありません。この心配事が終わったと思うと、また不思議なように、違った心配事が現れるものです。今週こそは平穏無事に、過ごせるかなと思うと、また思いがけない重荷が、次々現れるものです。日常生活の細々とした心配事、健康への不安、試験のこと、就職の不安、年金の将来についての不安、世界情勢に関する不安、数えればキリがありません。
 では「無計画・無準備」で良いのか。「思い煩わない」という生き方は、脳天気に徹して、将来の計画も立てず、準備もせず、何事にもくよくよしない、と言うのとは違います。パウロは、「思い煩うな」という勧めの後「あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。」と勧めます。何という積極的な勧めでしょうか!
(結論)今日、あなたが持っている心配事は何ですか。健康のことですか。人間関係のことですか。経済のことですか。事業のことですか。魂のことですか。死の恐れですか。何であったとしても、私達のために荷を負ってくださる主に、それを口に出して祈り、委ねましょう。感謝を先取りして立ち上がりましょう。