2021年3月7日日曜日

礼拝メッセージ 2021年3月7日
説教題 「時機を得た助け」
  書  ヘブル人への手紙4章14~16節
(序論)今日のみ言葉の「大祭司」というのは、私たち日本人にはあまり馴染みのない言葉ですが、ユダヤ人たちには、よく知られた名称でした。それは、神様と人を結びつける働きをする人のことで、神様との仲介者のことです。
 
(本論)イエス様は、私たちの罪の贖いを成し遂げて、神の右の座に着き、そこで私たちのために、とりなしていてくださいます。「罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなして、いてくださます。」(ローマ834
1)弱さを思いやる方  「この大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです」(改訳)。 ここには、私たちの大祭司についてもう一つのことが言われています。それは、私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではない、ということです。私たちが苦しむとき、その苦しみを十分に理解し、同情することがおできになられます。それはもう他人事ではありません。自分の痛み、自分の苦しみ、自分の悲しみとして、共に負ってくださるのです。
 聖書に「良きサマリヤ人」の話があります。彼は、旅の途中、強盗に襲われ死にそうになっていた人を見ると、かわいそうに思い、近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、自分の家畜に乗せて宿屋につれて行き、介抱してやりました。次の日、彼はデナリ硬貨を二つ取り出し、宿屋の主人に渡して言いました。「介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。」
このサマリや人はなぜこのようなことができたのでしょうか。それは、この傷つき、苦しんでいた人の隣人になったからです。彼は傷つき、苦しんでいた人を見たとき、とても他人事には思えませんでした。それを自分のことのように感じたのです。だから彼はそのような行動をとることができたのです。それはイエス様も同じです。
2)時機を得た助け  旧約聖書の時代には、だれもが神に近づけるというわけではありませんでした。近づくことが出来ないお方です。 神に近づこうものならば、たちまちにして滅ぼされてしまいました。神に近づくことが許されたのは神に選ばれた大祭司だけで、しかもそれは一年に一度だけのことでした。しかも大祭司にも罪があったので、彼が神の前に出る時にはまず、自分自身と家族のために、いけにえ、をささげなければならないという、念入りさが求められました。
けれども、今は違います。今は神の御子イエス様が、完全ないけにえ、として十字架で死んでくださり、私たちのすべての罪を贖ってくださったので、はばかることなく、大胆に神様に近づくことが、出来るようになりました。
(結論)私たちは、このような偉大な大祭司を持っているのです。それだから、私たちは自分の弱さの中に留まり続けるのではなく、そこから一歩踏み出して、神様に近づくことができるのです。ですから苦しい時は「神様、助けてください」と叫び求めるべきです。

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