2021年3月14日日曜日

礼拝メッセージ 2021年3月14日
説教題 「祈り・平安・希望・確信」
  書  ヨハネの第一の手紙5章14~15節
(序論)祈ることは、本当は楽しいことです。しかし、それは決して楽なことではありません。祈りの必要性は分かっていても、なかなか祈りの時間は、持てないのが事実です。しかし、キリスト者を造るものは、祈りです。
(本論)私たちが、信仰生活を続ける上で、よく受ける攻撃は、祈りに関することです。すなわち、「祈ったって無駄だ、何の意味もない」ということです。悪魔はあなたの耳元で、こうつぶやくでしょう。
1)何事でも  ところで、ここには「何事でも」とあります。私たちは祈るとき、「こんなことを祈っても大丈夫だろうか」とか、「まさかこんなことは聞いてくださらないだろう」と思い、祈ることを躊躇してしまうことがありますが、ここには「何事も」とありますから、何事でも祈ることが大切です。ヤコブは、「あなたがたの、ものにならないのは、あなたがたが、願わないからです。」(ヤコブ4:2)と言いました。私たちは、自分で何とかしようとして、神様に祈らないことが多いのです。 しかし、何事でも神のみ心にしたがって願うなら、神は聞いてくださるということ、それこそ、神に対する私たちの確信なのです。
しかし、ここには一つだけ条件があげられています。それは「神のみ心にしたがって願うなら」ということです。「ほらみなさい。やっぱり無理じゃないですか。だって、神のみ心にしたがって願うならと言われても、神のみ心が何だか、さっぱり分かりません。」神のみ心だと思って祈っていても、結局のところ、自分の思いで祈っているということが結構ありますから。「神のみ心にしたがって願うなんて無理ですよ。」と、考えます。ですから、祈らなければならないのです。そのようにして祈るなら、少しずつ神のみ心が分かってくるからです。
 
2)最善の結果  15節。ここには、「私たちが願うことは、何でも神が聞いてくださると分かるなら、私たちは、神に願い求めたことをすでに、手にしていると分かります。」とあります。どういうことですか? 私たちが願うことは何でも神様が聞いてくださると、いうことが分かるなら、それはもう叶えられている、ということです。もちろん、これは私たちの要求が、何でもその通りになるということではありません。そうではなく、神に願ったら、神は最善の結果に、導いてくださる、ということが分かるので、安心して結果を、ゆだねることが出来るという意味です。
(結論)ヤコブは「疑わずに、信じて願いなさい」(ヤコブ1:6)と言っていますが、これも神様との信頼関係を示しています。神様は私たちの父です。父であれば自分の子どものことを愛していて、子どもが必要としているものを与えてくれます。でも有害なものは与えません。良いものしか与えないわけです。私たちがその良いものを神様に求めるなら、その求めたことは何でも、神様は与えてくださいます。

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