2013年11月24日日曜日

礼拝メッセージ2013年11月24日

説教題   「神の憐れみに対する感謝」

聖 書   テモテへの第1の手紙1章1217

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序論)現代人は「生命」さえ自由にできると豪語します。しかし、一人の人間として自分を治めることに苦慮しているのが自分の本当の姿ではないでしょうか。やり切れないほどの孤独感、他人との格差の中で報われないいら立ち、つぶやきと嘆息の連続。しかし聖書には、「いつも喜んでいなさい、絶えず祈りなさい、すべてのことについて感謝しなさい」(テサロニケⅡ,5:16)とあります。これが人として生きる者の基準だと言います。

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本論)
 古歌に「打ち見れば何の苦もなき水鳥の脚にひまなきわが想いかな」とありますが、これが私たちの現実の生活そのものではないでしょうか。「不満の目録」と「恵みの目録」があるとすれば、「恵みの目録」をいつも持って、神の恵みを忘れないうちにメモしたいものです。この目録は、敬虔に一生を過ごそうとしている者に力を与えます。信仰を生き生きと継続維持する秘訣は、神の恵みを具体的にしばしば思い出すことだと言った人がいます。それは大伝道者パウロの姿でもあります。隣人への愛の実践の迫力ある気迫となって人の心を動かしました。それは又、マザーテレサの生き方でもありました。

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結論)
 パウロはエペソ人への手紙第2章で、「先には自分の罪過と罪によって死んでいた」、しかるに神はこの私に目をとめて「キリストと共に生きる」者として下さった、と言っています。

 人はみな目先のことで一喜一憂して、うまくいけば自分の手柄、失敗すれば他人のせいにして良い子になる傲慢不遜な者になりがちです。神は私たち一人ひとりと向き合って、自分の生き方を変えて私に従ってきなさい、と招いて下さっています。どんな時も神様がわたしと共にいてくださる、この祝福により、全てのことに感謝できる、喜びと祈りに満たされたキリスト者にならせていただけるのです。

2013年11月17日日曜日

礼拝メッセージ2013年11月17日

説教題   「恐れるな。語りつづけよ」

聖 書   使徒行伝 第18章5~11節

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序論)神の前に謙虚に生きることを求められている私たちは、神の慈愛に生かされていることを自覚したいものです。「無きに等しい」と思える者が、イエス・キリストの恵と赦しによって、はばからず神の前に出ることができる者とされています。主の十字架のあがないによって生きる者とされた、これが私たちの信仰です。

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本論)
 神様は忠実なしもべを用いて栄光を表わされます。神様に従うことで、新しい力に満たされます。「わたしが支える者」(イザヤ書42:1)これが大切です。パウロがコリント教会の建て上げのために派遣された時の話が今日のテキストです。キーワードは使徒行伝1810です。水島教会の今年度の聖句でもあります。
「恐れるな。語りつづけよ、黙っているな。あなたには、わたしがついている。だれもあなたを襲って、危害を加えるようなことはない。この町には、わたしの民が大ぜいいる。」
神は、進め前進せよ、恐れるな、語れ、わたしがあなたと共にいる、祝福の刈り入れが待っている、と言っておられます。この希望の確信が主の導きの中で与えられます。

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結論) 「たといわたしが暗やみの中にすわるとも、主はわが光となられる」(ミカ書78

スランプに落ち入り先の見えない行き詰まりに出会う時、このような挫折感の真っただ中におかれる時、主がパウロに語られた今日のみ言葉は、今の時代に生きるキリスト者に勇気を与えます。あなたを襲って危害を加える者はいない。この町には私たちの宣教のわざを待っている人々が大ぜいいるのです。このことを信じます。

2013年11月10日日曜日

礼拝メッセージ2013年11月10日      高木実師(キリスト者学生会副総主事)

説教題   「失望せずに常に祈るべき・・・」

聖 書   ルカによる福音書 第18章1~8節

(序論)
ここの例え話の目的は「失望せずに常に祈るべき」だということです。
この非情で不義な裁判官ですら、面倒をかけるから・絶えずやってきて悩ますから、やもめの訴えを聞き届けてやる。まして、神は選民のために正しい裁きをせず放置されるだろうか?だから、失望せずに絶えず祈りなさい。
しかし、「失望せずに常に祈るべき」という義務感で祈ると、長続きはしないのが現実ではないでしょうか?私たちの現実、常には祈れないという私たちの痛み、弱さ、貧しさをイエス様はよく知っておられた上で、このような例え話をされたことに、この例え話の真意があるのではないでしょうか。

(本論)
浄土真宗の開祖親鸞は、祈りなき信仰、無祈祷の宗教を提唱し、全知全能の阿弥陀仏は全てを知っておられ、人間に必要なものは祈らなくても与えてくださる、それにもかかわらず祈らなくては与えられないというのは、不実、不遜、不毛であり、人間の祈りは神をぼうとくするものである、と説いています。
キリスト教会の歴史上でも「全知全能の神に祈る必要があるのか?」という論争がなされてきました。
宗教改革者ルターは次のように言っています:
「祈りは、神ご自身が我々の願いを知るためではなく、我々自身のためであり、祈りは恵の手段として与えられている。祈りを続ける中で祈りの動機がさぐられ、我々の願いが清められ、祈りの中で神と深く交わることによって、自己中心の祈りから神中心の祈りに変えられ、私たち自身の信仰が変えられる。」
親しい友人や恋人とは、必要とか義務からではなく、会って話がしたくなります。これと同じように天の父と話がしたい、これが祈りです。祈りは、理詰めで必要か不必要かを論ずる問題ではなく、神と私たちの人格的交わりです。愛する人と語り合いたいと願うのと同じように、愛なる神と話がしたいと願うこと、これが祈りです。

(結論)
 この箇所の裁判官と異なり、神は私たちが話かかけてくることを心から願っておられます。親として、かたことの言葉で話す幼い子が語りかけてくるのは喜びです。親は、子どもの話が滅茶苦茶であろうが、自分中心で不純であろうが、その子の語りかけを喜ぶものです。まして、神は我々が語りかけるのを待っておられ喜んでくださいます。「祈るべき」ではなく、「祈ってもいい」のです。
過ちを犯した時でも、落ち込んで絶望のどん底におちいっている時でも、失望せずに祈ることを神は待っておられます。
私たちの弱さを思いやることのできないようなかたではない。・・・私たちは、あわれみを受け、また、恵みにあずかって時機を得た助けを受けるために、はばかることなく恵の御座に近づこうではないか」(ヘブル人への手紙4:15,16)
私たちの祈りはどうしようもなく不純で自己本位なものです。私たちの存在すら汚れて不純なものなのですから。しかし、そのような者の祈りを神は喜んで待っていてくださいます。
祈らなくてはならない、のではなく、祈ってもいいのです。
祈りは、神が私たちに与えてくださった「恵み」なのですから。

2013年11月3日日曜日

礼拝メッセージ2013年11月3日

説教題   「逃げないで」

聖 書   ルカによる福音書 第242536

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序論)聖書は神が存在するかどうかを議論しません。神は実に今も生き生きと働いておられる、これが大前提です。「人々よ、静まって謙遜に自分を見つめ直せ」と聖書は語ります。「愚かな者は心のうちに『神はない』と言う(詩篇53:1)このような人の生き方は人生で大切なものを喪失しているのです。

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本論)
神を恐れ、その命令を守れ。これはすべての人の本文である(伝道の書12:13)この原点に帰るまで人は迷い、さ迷う旅人で終わるのでしょう。しかし、主の愛によって、どうしようもない私でも神のふところに帰らせていただけます。キリスト様の十字架による罪のあがないの事実を信じるだけで、神様は私を受け入れて下さいます。

 一般にエマオ途上の弟子たちと言われる話が今日のテキストです。イエス様を信じつつ、現実から逃避する私たちの姿がここにあります。彼らは復活のイエス様に引き戻されながら、信仰の前進を学んでいきます。絶望に目がふさがれ、望みなるキリストがすぐそばにいてくださっているのに気づきません。主はいつも繰り返し、繰り返し、暗さの中に座り込んでしまう者たちに近づいて、一緒に食卓につき、パンとぶどう酒をとり、イエス様が私たちのために十字架にかかってくださったことを思い出させてくださいます。私たちは主の食卓につながることを赦されている存在です。そこに望みの回復があります。「お互いの心が内に燃えた」このような極めてリアルな神体験が与えられます。

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結論)
聖餐式で私たちはお互いの心、主を信じる者の歓喜を共有できます。私たちは今、聖餐式にあずかりますが、どんな十字架を負わされているか分かりません。どんな境遇にいようとも、主イエスの言葉に信仰の応答をいたしましょう。それぞれの現実から逃げないで、その真ん中で働いてくださる神様を信じましょう。