2017年4月30日日曜日

礼拝メッセージ  2017年 4月 30
説教題  「信仰と希望の表明
聖  書  詩篇 50章14、15節
序論)私達が、神様にささげる感謝のいけにえ(ささげもの)には、絶大な力があります。私達が人生の暗い夜を過ぎるとき、神様に感謝をささげるなら、驚くような奇跡が起こり、私達の暗い環境が取り除かれ、神様は私達を明るいところへ導いてくださいます。(50章23節
本論第一感謝は、自分自身の力と知恵に頼ることのあきらめと、神への従順意味するからです。かたくなで強情な心を持った人は、人生の夜を通る時、恨んだり、ため息をつき不平を言います。
 今日も神様は、砕かれた人を捜しておられます。人生暗く長い夜を過ごすとき感謝する人は、砕かれた人です。神様は、このような人を決してお見捨てになりません。
 第二感謝は、全知全能でどこにでも臨在して働かれる神様の摂理を、全てのことについて受け入れるという信仰告白です。
 第三に、感謝が奇跡を持ってくる理由は、感謝こそが期待を伴った希望の表現だからです。たとえ目に見える現実は暗く、手にするものがなくても神様の愛が私を絶対に捨てる事がない。という、信仰と希望の表明なのです。だから、そういう人に「…… わたしは神の救いを見せよう。」と言われるのです。(50章23節)。
結論)多くのクリスチャンは、この秘訣を我がものと出来ないでいます。人生の失敗や失望が襲ってきて魂を身もだえさせる暗黒の夜を過ごす時、感謝を捧げましょう。感謝は、あなたが砕かれている証拠であり、神様に全てを任せている証拠です。感謝だけが、長い暗い人生の夜から導き出し、明るい太陽の輝く人生の朝へと案内する秘訣、道なのです。

2017年4月23日日曜日

礼拝メッセージ  2017年 4月 23
説教題  「信じる者の幸い
聖  書  ヨハネによる福音書 20章26〜29節
序論)トマスは、ヨハネの福音書の中で特別な扱いを受けています。
信仰と不信仰の葛藤がヨハネの福音書のテーマですから、トマスに特別な光が当てられたこともうなずけます。トマスが信仰の人に変えられた過程について考えてみます。
本論悲観主義 トマスには悲観主義の性格が宿っていました。現代人の多くがストレスに悩んでいます。その原因の大きなものは、悲観主義です。人に対して、神に対してさえ悲観主義に陥ってしまうのが私達の姿です。 
 合理主義 トマスは合理主義者であり、自分の理性で把握出来ないものは信じることが出来ませんでした。神様を知るには、1)理解したら信じようという方法と、 2)理解するために、まず信じようという方法があります。後者の方法こそ神様に近づく方法であり、理性を正しく位置づける道です。
 体験主義 合理主義は体験主義を生み出します。トマスも体験主義者でした。弟子たちが復活されたイエス様に出会った時、トマスはそこにいませんでした。ほかの弟子たちが興奮して、「私たちは主を見た」とトマスに報告したとき、彼はこう答えました。「私は、その手に釘の後を見、私の指を、釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じない。」(25節)。
結論)主はトマスのその発言もご存じで、八日後にトマスの前にその姿を現されました。「あなたの指をここに付けて… 手を伸ばして私のわきに差し入れなさい。… 信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」ある人は、信じる前に、見せてほしい。と言う方がおられます。見て信じたら、それは信仰ではありません。主は言われました。「あなたは私を見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」

2017年4月16日日曜日

礼拝メッセージ  2017年 4月 16
説教題  「復活の主に出会う
聖  書  ヨハネによる福音書 21章1〜7節
序論)自分の力を過信するあまり、イエス様を三度も否んでしまったペテロは、ガリラヤ湖畔で復活のイエス様に出会い、新しい出発をすることになります。彼は、敗者から復活する喜びを味わい、残りの生涯を赦して下さった方に捧げた一人です。あなたも、今までの歩みがどんなであっても、この主イエスとの出会いを通して新しい出発をすることができます。
本論信仰の再確信 復活のイエス様の現れを待っていたペテロは、待ちきれなくなり漁に出かけます。不安を紛らわすためだったのでしょう。しかし、全くの不漁でした。夜が明けそめた時、イエス様が岸辺から「舟の右側に網を降ろしなさい」と言われます。漁師は、舟の左側にしか網を降ろさない常識外れの方法です。その通りにすると舟が沈みそうになるほどの魚が取れました。この大漁の経験は、イエス様と最初の出会いを思い起こさせ今も生きておられる主であると確信しました。
 愛の確認 弟子が陸に上がった時、炭火の上に魚とパンが用意されていました。食事をしながらイエス様の叱責の言葉を待っていたペテロの耳に信じられない言葉が投げかけられました。「私を愛するか」と、三度も。ペテロの深い傷を癒す大切なステップでした。
 希望の更新 ガリラヤ湖畔でイエス様の「私に従って来なさい。人間を取る漁師にしてあげよう」の言葉で従ったペテロでした。今また新しい思いで「私に従いなさい。」との声を聞くことが出来ました。ペテロは、ヨハネを見て「主よ。この人はどうなのですか」と聞いてしまいました。主は「あなたは、わたしに従いなさい」と語られました。
結論)私達も、周りが気になります。私が神様に従ったら…、あの人はどうなるだろうか。結婚は。進学は。次から次へと不安と疑問がでます。それに対して主は「あなたは、わたしに従って来なさい」と声をかけておられます。

2017年4月9日日曜日

礼拝メッセージ  2017年 4月 9
説教題  「チャンスを与えられた人  
聖  書  ルカによる福音書 23章39〜43節
序論)人生には二種類の選びがあると言われています。一つはUターン形、もう一つはY字形です。ある人は、人生の途中で誤りに気づき、方向転換をします。これはU-タン形です。他の人々は、右にすべきか左にすべきかという岐路に立され、Y字形の選びを余儀なくされます。
本論それでも神は私を愛しておられる
 イエス様と共に十字架につけられた二人の犯罪人、彼らは今まさに苦しみと恥の中で、最後の息を引き取ろうとしています。人間が経験する中でも、最も悲惨な十字架刑で死のうとしています。彼らの生きた時代が悪かったため、こうなってしまったのでしょうか。いいえ、そうではありません。この犯罪人は、自分で選ぶことの出来ない多くの状況に直面して来たでしょうが、それと同時に、自分で選ぶことの出来る機会も無数に、与えられて来たはずです。Y字型の岐路に立って、一つ一つの選びを行って来た。その最終的な答えが、十字架刑だったのです。
 死に瀕した二人の犯罪人は、神様から見放されてしまったのでしょうか。そうではありませんでした。今まで誤った選びをし、罪の中を歩いて来たこの二人も、神の愛からもれてはいませんでした。
 1.長い間の疑問、どうして一人の犯罪人が急に悔い改めたか?
「十字架の七言」とあるように、主イエス様は、6時間にも渡る苦しみの中で七言葉しかしゃべっておられない。しかも七言の内容、また突然「キリスト」との群衆の言葉から気づいたと思われる。
 .第二の疑問、翌日が安息日だからと、両側の犯罪人のすねを折ったたけで人が死ねるのか?身体をつっぱることが出来ないので窒息死する。
結論)イエス様は、「今日」「わたしとともに」「パラダイスにいる」と。あなたが痛み、苦しんでいるその所で、あなたの目を、あなたの問題から少しそらしてみる時、そこに主がおられ、イエス様に出会うことが出来ます。間違った選択でいま苦難の中にあるとしても、それでも、あなたは愛され平安で包まれるのです。