2017年8月27日日曜日

礼拝メッセージ  2017年 8月 27日 
説教題  「エリヤの勝利の秘訣
聖  書  列王記 上 18章30〜39
(序論)エリヤは、祭壇を築き直して、いけにえとたきぎの上に水を注がせました。エリヤが祈ると神様は、天から火を下し、いけにえとたきぎを焼き尽くされました。これを見た民たちは、主が神様であることを認めました。エリヤが祈ると、大雨が降りだしました。
(本論)1. 火をもって答えられた神  バアルの預言者のむなしい努力の後、エリヤは再び主の祭壇を築くことから始めます。民の崩れた信仰をもう一度立てようとしました。エリヤはいけにえと、たきぎに水を注ぎ、絶対に火が付かないような環境をつくります。エリヤの祈りはバアルの預言者ほど長くありませんが、神様はすぐに火をくだし、びっしょり濡れている、いけにえとたきぎを焼き尽くしました。民は、神様が不可能なことを成し遂げられたのを見て、主がまことの神様であることを認めます。崩れた信仰を回復することが何よりも重要なことです。あなたの祈りの祭壇は崩れていませんか。
 2. ききんのさばきの終わり  次にエリヤは、火をもって答えて下さった神様に、今度は水をもって、つまり雨で答えてくださるように願います。
 地中海から手のひらほどの小さな雲が上ったという知らせを聞き、エリヤは、ききんが終わり大雨が降ることを確信しました。エリヤの言う通りに雨が降ったので、神様のみ言葉の成就であることを示しています。
 この世の全てのことは、神様の統治下にあります。心から信じますか。
(結論)エリヤの勝利の秘訣は、「信仰と祈り」でした。全世界を創造し治めておられる神様、きょうも私の歩みを導き、神様を深く知る恵みをお与えください。祈りが回復し、福音の力により頼む生き様をとおして、生きておられる主なる神様を宣言することが出来ます。

2017年8月20日日曜日

礼拝メッセージ  2017年 8月 20日 
説教題  「信仰的二重生活
聖  書  列王記 上 18章21〜29
(序論)アハブがエリヤに会いにやって来ると、エリヤはアハブに、バアルの預言者たちを集めるように言います。彼らは1日中踊りまわって大きな声でバアルの名を呼ばわりますが、何の答えもありません。
(本論)1. エリヤとアハブ 1620節)エリヤの言葉がアハブに伝えられ、二人の出会いが実現します。アハブはイスラエルに、大きな災いをもたらせた原因提供者でありながら、エリヤに「イスラエルを惑わすもの」と言って巧妙に責任を転嫁します。するとエリャはだれがまことの神様で、何が災いの原因かを明らかにするための対決を提案します。「イゼベルの食卓につく」と言うヘブル語の慣用句は、彼女が異邦の神々の預言者を多方面で保護し、育成していたことを意味します。
 聖徒は、絶対多数の悪にも屈することなく、堂々と神様の側を選ぶ者でありたいものです。
 2. カルメル山の対決 2129節)民は一言も答えなかった」二心を抱かず主なる神様だけに仕えなければなりません。アハブは、バアルの預言者とイスラエルの民を集めました。エリヤは、「いつまで二つのものの間に迷っているのか。主なる神か、バアルが神ならバアルに従え」と言うと民は一言も答えませんでした。エリヤひとりの挑戦に多数の民が一言も答えられなかったのはなぜでしょうか。主なる神様へ全幅的な信頼をためらわせるものは何でしょうか。職場や学校で強力な不義と向き合う時、どのように神様の御心を行うことができるでしょうか。
(結論)主なる神様と偶像の間で、どっちつかずにいるということは、二心を抱く信仰的二重生活を意味します。狭い門と、広い門を利益により行き来するような信仰姿勢は、いにしえの殉教の死をとげた多くの聖徒の前に恥かしい限りです。キリストに人生の方向を定め、直進しましょう。この世の権力によろめかず神様の側に立ちましょう。




2017年8月6日日曜日

礼拝メッセージ  2017年 8月 6日 
説教題  「危機はチャンスに!
聖  書  列王記 上 17章17〜24
(序論)ザレパテのやもめの息子が病気になって息を引き取ると、彼女は自分の罪を思い知らせ、息子を死なせるために来たのか、とエリヤに言います。以前は罪を犯しても何不自由なく生きていたのに、今は神の人エリヤのために自分の罪があらわになって息子が死んだと言うのです。
(本論)1. やもめの息子の死  17節「これらの事の後」とは、粉と油が尽きず、エリヤと女の家族が長い間それを食べていたことを指します。つまり神の驚くべき助けを経験し、預言者を世話したのに、そんなことが起こったのです。神に献身する時、苦境に見舞われても疑ったりせず、それらすべてのことに神様の主権的なご計画があることを信じましょう。
 2. エリヤの祈りで生き返る  試練は祝福への導きの管です。エリヤは、感情を抑えられない女から死んだ息子を受け取って自分の寝台の上に横たえ、神様に祈ります。願いが聞かれ生き返ると、このことで、女はエリヤが、まことの神の人であり彼の口にある主のことばが、真実であることを知ったと告白します。過去に経験して知ったことは、神様が生活の必要を満たして下さる、ということだけでした。しかし、今、息子を生き返らせた神様のみわざを経験することで、神様が生死をも、つかさどっておられるお方であることを知ります。神様に対する女の認識が一段階発展したのです。試練は、神様の御声を聞く拡声器です。つかの間の試練や苦しみを通して、神様をさらに深く知るようになります。
(結論)ザレパテの女は、一人息子の死という大きな試練を通して、神様の真の姿を知ります。彼女は、「神様は人間の過ちに応じて災いを下す存在」という考え方を捨て、神様は人間の訴えにあわれみを施される、いのちの源である方だと告白します。試練の時に悲観的にならず、神様の御心を探り、恵みを求めましょう。試練は全き信仰へと導く手段となります。