2019年11月24日日曜日

礼拝メッセージ  2019年 11月24日
説教題 「主よ。・・・祈りを」
  書  ルカによる福音書 第11章 1節
今日のみ言葉は、イエス様の祈りを見て弟子たちが「私たちにも祈りを教えて下さい。」と願ったことです。 私たちは、信仰の先輩たちと一緒に祈るとき、「ああ、何と素晴らしい祈りだろう。私もあんな祈りができないものか。」と思わされることがあります。イエス様の祈りは、天の御父との語らいですから、それを見聞きした弟子たちが、主の祈りの姿の麗しさ、力強さ、素晴らしさに引き付けられました。
 ある時、こう言った人がいます。「若い時に英語をやっておけばよかった。外国旅行の時に不便でね!でも…これで結構、世界中を回って来た!」「祈りが出来たらよいのに!でも… それでなくても、結構やっていける!」 あなたも思っていませんか? この箇所の弟子たちの願い、たわいもない願いと思ってはいけません。彼らの願いは、助けを求める叫びです。「主よ。祈りなしには進めません! でも、私たちは正しく祈れないのです!助けてくださいませんか‼」  
 祈りなき人は、霧の中で無線が故障した飛行機のようです。あらゆる悩み、不安を一人で身に負わなければなりません。唯一の救助者に無線連絡もしない、困ったことです。が、意外にも人はそれに気づきません。祈りなき人は、神様にとっては死人も同然です。愛する人の亡き骸を前にしたことがあるでしょう。もう一度ことばを交わせたらと思います。が…もう、ひと言も話してもらえません。 主は私たちと重大な話をしようとされますが、私たちは話すことをしません。祈れません。聖書はこれを「死んでいる」と言います。
    祈りなき人は、かげろうと同じです。やがてさばきの日に、神様の前に立つと神は仰せになります、「わたしはあなたを知らない。あなたの口から一度として願いや感謝の言葉を聞いたことがない。ここに来なくてもよい。あなたは、私のいない所へ行けばいい。自分で選んだ所、暗闇の世界へ行くがよい」このことを悟るなら、弟子たちの切実さを理解します。

2019年11月17日日曜日

礼拝メッセージ  2019年 11月17日
説教題 「感謝は勝利の秘訣」
  書  コロサイ人への手紙 第2章 6~7節
徒然草 第百二十三段
「思うべし、人の身に止むことを得ずして営む所、第一に食う物、第二に着る物、第三に居る所なり。人間の大事、この三つに過ぎず。飢えず、寒からず、風雨に侵されずして、閑(しず)かに過ごすを楽しみとす。ただし、人皆病あり。病に冒されぬれば、その愁(うれ)い忍び難し。医療を忘るべからず。薬を加へて、四つの事、求め得ざるを貧しとす。この四つ、欠けざるを富めりとす。この四つの外を求め営むを奢(おご)りとす。四つの事倹約ならば、誰の人か足らずとせん。(吉田兼好著)
 この言葉の中に、しみじみとした吉田兼好の「万物有情」への感謝があります。現代は不足を知って、足ることを知らない「餓鬼道」時代です。しかし、このような時代の中にあって、私たちは、深い感謝をもって生きられるのは、主の救いを受けたおかげであり、信仰の賜物です。
 主イエス・キリストを受け入れた者には、深い感謝があります。その感謝は、たましいの底から湧き出てくる感謝です。キリストに根ざし、キリストと共に歩き、キリストに教えられ、キリストにあって建てられてゆく「信仰生活」には、はっきりとした「聖霊様の助け」があります。御霊の臨在有るところには平和と感謝があります。感謝は勝利の秘訣です。感謝のない心、感謝のない時間は、サタンの踏み込む危険な瞬間となります。
「主イエスを喜ぶことは、あなたの力です。感謝をささげることは、あなたの力です。」「感謝をささげる事は、素晴らしい喜びがある。主は傷ついた心、いやし包む。我らの感謝を、救い主にささげる。その憐れみゆえに」

2019年11月10日日曜日

礼拝メッセージ  2019年 11月10日
説教題 「悩みと慰め」
  書  詩篇 第34篇 19節
相田みつを さんの詩集「人間だもの」の中に「悩みは尽きねえんだな、人間だもの」とあります。ダビデの歌と書いてあるこの詩篇34篇にも「正しい者の悩みは多い。しかし、主はそのすべてから彼を救い出される」(新改訳19節)とあります。
 そこで問題になるのが、悩みすぎて健康を害したり、悩みに埋没して前に進めなくなるのは、大きな人生の損失です。神様は、すべての地球の生命に燦燦と光と熱を与えて命に輝きを下さっているのに、笑顔が戻らないのは希望に生きないのは、ある意味で罪なのかもしれませんね。人は笑顔で生きる義務がある、と言うと強引でしょうか。
 さて、この詩篇1節でダビデは「わたしは常に主をほめまつる。その賛美はわたしの口に絶えない。」と言います。ダビデは、度々の戦いで手柄をたて、イスラエルの民に人気が高まりました。そのためサウル王のねたみを買い命を狙われました。敵であるペリシテ人の地に逃れ、狂人のふりをし命拾いしました。ダビデは、心の中で主に助けを求めたのでしょう。そして主は彼に答え、彼のすべての恐怖から救い出してくださいました。
 この中で詩人は、「彼らが主を仰ぎ見ると彼らは輝いた」(5節・新改訳)とうたっています。全世界の悩みを一身に背負ったような重苦しい顔をして教会に来た人で、イエス様を信じ主を仰ぐようになると、その人の顔が輝くような顔に変わってしまう人が何人もいます。主を仰ぐとき、その人の顔は輝いて来ます。しかし、輝きを保つには、ずっと見続けることが必要です。

2019年11月6日水曜日

礼拝メッセージ  2019年 11月3日
説教題 「洗足」
  書  ヨハネによる福音書 第13章3~5節
今日のみ言葉は、イエス様の最後の晩餐の席での出来事です。
イエス様は、上着を脱ぎ、手ぬぐいを腰にまとい、自ら たらいを取って
弟子たちの足を洗われました。「洗足の物語」は、読む者に深い感動を与えます。「主であり、また教師である私が、あなたがたの足を洗ったからには、あなたがたもまた、互いに足を洗い合うべきである。わたしがあなたがたにした通りに、あなたがたもするように手本を示したのだ。…もしこれらのことが分かっていて、それを行うなら、あなた方は幸いである」。(ヨハネによる福音書1417節)
 12弟子の足を洗われた主は、今わたしたちの、けがれた足をも洗っておられます。この霊的事実に目覚めるとき、私たちも、極度のへりくだりをもって、主が示されたその「手本」にならいたいものです。「洗足」の精神は、主の恵みにあずかる秘訣です。
「われらの足を洗い給う神」のお姿を、今も、私たちは、全世界に見ることができます。それゆえ、私達も互いに足を洗い合うべきです。 
 「もしこれらのことがわかっていて、それを行うなら、あなた方は幸いである」と主は十字架の死を前にして、わたしたちに、この「手本」をお示し下さいました。なんと崇高なお姿でしょうか。お互いがこの世の生活でつけた泥を洗い落とし合う交わりです。ペテロは、「主のためには自分は命も捨てます」と言ったが、その夜のうちに三度イエス様を知らないと言ってしまうように、人の真実さなど頼りになりません。へりくだって主のみ言葉に聞き、主の愛をいただいて互いに愛し合い、足を洗い合って、主の教会を建て上げましょう。