2018年12月27日木曜日

礼拝メッセージ  2018年 12月 23日 
説教題  「御心にかなう人々」 
聖  書  ルカによる福音書 第2章8〜14節
(序論)ヨセフとマリヤは住民登録をするために、ベツレヘムに行き彼らがそこにいる間にマリヤは月が満ちて初子を産み、飼い葉おけに寝かせます。この土地にいた羊飼いたちは、救い主がお生まれになったことをみ使いから聞きます。すると天の軍勢が現れ、神の栄光と地の平和について神を賛美します。
(本論)1.約束に真実な神様  今日の箇所は、当時の政治的状況を描いており、イエス様の誕生が歴史的事実であることを立証しています。 当時世界を支配していたのは皇帝アウグストでしたが、実質的な統治者は御子イエス様です。イエスがダビデの家系の永遠の王としてお生まれになったことは、約束の成就です。(ミカ52) 神様は、預言者ミカの預言を成就するため、当時よほどの事情がなければ居住地を離れなかったヨセフとマリヤを、住民登録のためにベツレヘムに行かせます。こうして、ナザレのイエス様がダビデの町ベツレヘムでお生まれになりました。
 神様は、約束されたことを真実に実現されるお方です。
2.御心にかなう人々に平和の約束  救い主の誕生の意味を知らなければ、その祝福を受けることは出来ません。人々が寝入ってる夜、救い主の誕生の知らせを最初に聞いた人達は、野で羊を飼っていた羊飼いでした。彼らは、当時、身分の低い人たちでした。貧しく希望の無かった彼らに、救い主が来られたという喜びの知らせが伝えられます。イザヤは、救い主を貧しい者とへりくだる者とを公正にさばかれる正義の王であると預言しました。(イザヤ112-4) 誰でもクリスマスを歓迎し、喜ぶことが出来ます。しかし、救い主の誕生の祝福は、「御心にかなう人々」にとって、平和だからです。イエス様は、私たちを神様と和解させて下さった平和の王です。
(結論)慌ただしい年末の雰囲気に流されず、家畜小屋にみどりごとして来られたイエス様を、深く黙想したいと思います。人類の救いに対する神様の約束を成就するために、天の御座を捨ててこの地に来られたイエス様を賛美し、偉大な喜びの知らせを広く伝えたいものです。

2018年12月9日日曜日

礼拝メッセージ  2018年 12月 9日 
説教題  「待った後に来る神の救い」 
聖  書  ミカ書 第5章2〜4節
(序論) ベツレヘム・エフラタは、ボアズ、エッサイ、ダビデの町です。ダビデの家から支配者が出るという約束は、ダビデの子孫による永遠の統治の約束を想起させます。「パンの家」を意味する「ベツレヘム」と「実を豊かに結ぶ」を意味する「エフラタ」という地名自体が希望の世を示しています。この小さな町が神様の奇跡と摂理を見せてくれるのです。
 
(本論) 2節の預言は、イエス様が誕生された時、東の国の博士たちがエルサレムに来て、ヘロデ王に「救い主がお生まれになられた場所はどこですか」と聞いたとき、律法学者(聖書学者)が引用したみ言葉です。
 1. 約束 メシヤが来られる52) メシヤは、ヘブル語では「油注がれた者」の意味で、ギリシャ語では「救世主」の意味があります。神様は預言者ミカを通して罪に対する裁きと共に、イスラエルを治めるメシヤがベツレヘムから生まれることを約束されます。メシヤの誕生は世の始まる前から計画されていました。人が罪を犯す前に、すでに人を救うことを定められたのです。罪によって死ぬしかない人間にとって、大きな希望のみ言葉です。
 2. 信仰 メシヤが来られるまで53 ユダの民はメシヤが来て救って下さる時まで信仰と忍耐によって待たなければなりません。メシアを待つ間、民はバビロンに連れて行かれ苦しみ、敵のあざけりや迫害を受けます。時には、世の豊かさに惑わされることもあるでしょう。これは信仰を揺るがすものですが、聖徒はあらゆる状況で神の救いを渇望し、信仰にとどまらねばなりません。
 . 成就 メシヤが来られたら549) メシヤが来られたら、敵から民を救い出し、回復させてくださることにより、主の偉大さが現わされます。メシヤは彼らの牧者となられ、その御名の威光によって民を養い、若い獅子のように強くされ、彼らに全き平和をくださいます。私たちもキリストを王、主としてお迎えする時、世のむなしい束縛から抜け出し真の平和を味わうことが出来ます。
 
(結論) ローマの支配、ヘロデ王の悪政により、民衆は悲惨な生活を送っていました。しかし、そうした暗黒の時代は無意味に続くものではなく必ず夜明けが来ることを聖書は語ります。待ち望む信仰が、神の栄光を受けます。主に信頼する者は決して失望に終わりません。「妊婦の苦しみも産み落とすまで」。後は、喜びと平安で包まれます。

2018年12月3日月曜日

礼拝メッセージ  2018年 12月 2日 
説教題  「インマヌエルの信仰」 
聖  書  マタイによる福音書 第1章18〜23節
(序論) クリスマスとは、キリストの誕生を祝う、礼拝、祭りを意味します。救い主イエス様が共におられる、至上の喜びに溢れるのがクリスマスです。マタイ28章で「わたしは、世の終わりまで、いつも、あなた方と共にいます。」とイエス様は語られました。神は、いつでも、どこにいても、どんな状況に置かれても共にいて下さり、眠ることもまどろむこともないお方です。
 
(本論) イエス・キリストの系図は42代続き、突然、イエス・キリストの誕生を持って終わっています。どういう訳か、キリストの系図はイエス・キリストでストップしてしまいました。それはただ一つ、彼は聖霊によって身ごもったということです。そして彼は、神の子であり、神御自身であったということです。アブラハムからダビデ王まで家系は上昇します。ダビデからエコニアまでは皆ユダの王でした。それから以降はダビデ家は落ちぶれて、ヨセフの時代には田舎の大工になっていました。しかし、そこに神はイエスキリストを生まれさせられたのです。
 1. 希望の神  キリストの系図の中には、4人の異邦人の女性が登場します。イスラエル人の目からは、いずれも汚れた人たちでした。しかし主は、その汚れを超えて御子イエス・キリストを約束通りダビデの家系に出現させてくださいました。どんなに落ちぶれても、汚れていても絶望することはありません。そこに御子イエス、救い主の命を、注ぎこまれる主を仰ぎましょう。
 2. インマヌエルの神  救い主の誕生は、さかのぼること600年も前に、イザヤが預言したことでした。「見よ、乙女が身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(123) 「インマヌー」が「宿る」、「エル」は「神」です。インマヌエルの意味は「神は我らに宿る、我らと共におられる」と言う意味です。どんなに状況が悪くなっても、国が滅ぼされそうになっても「神が我らと共におられる」と言う、この御言葉は真実だということです。そして、これが神様が私たちに与えて下さったしるしなのです。
それがこのクリスマスの「イムマヌエル=神我らと共にいます。」と言う意味です。
 
(結論) イエス・キリストを受け入れ罪赦され、きよめられ、日ごとのディヴォーションにより主と交わり、神様と共に歩む者とさせていただきましょう。また、イエス・キリストの誕生が、ヨセフの御言葉に従う従順な信仰を通して、誕生されたことを覚え、御言葉に従う信仰に励みましょう。

2018年11月25日日曜日

礼拝メッセージ  2018年 11月 25日 
説教題  「偶然と神の必然」 
聖  書  歴代誌下 第18章28〜34節
(序論) この箇所には、南ユダのヨシャパテ王が、北イスラエルのアハブ王と縁を結んだ結果、したくもない戦いラモテ・ギレアデ奪回作戦に加わることになったこと、400人のアハブ王の預言者たちが勝利の預言をしたが、真の預言者ミカヤは、アハブ王の死を預言したこと、戦いで南ユダのヨシャパテ王は窮地に陥った時、主の助けを求めると、主が助け救い出してくださり、北イスラエルのアハブ王は、流れ矢に当たって死んだことが記されています。
 
(本論) 1. 叫び求めたヨシャパテ王  アハブ王は、ヨシャパテ王に王服を着せ、自分は変装して戦場に出ました。 これはミカヤの預言に警戒心をもったアハブ王が一兵卒の姿となり、ヨシャパテ王に王服を着せて戦いにのぞみます。ヨシャパテ王はこの計画にも逆らえないあわれな姿をみます。案の定、敵の攻撃の的になり、アラムの戦車隊長は、ヨシャパテ王をイスラエルのアハブ王と思って総攻撃を仕掛けます。 この時、死の脅威を受けたヨシャパテ王は、乱戦のさ中でも、アハブ王の醜い策略のもとでも、主はヨシャパテ王が助けを求めると、救い出してくださいました。「救いを求めた」に該当するヘブル語は、「救いを求める切なる叫び」を意味します。神様はその状況に介入され、敵軍の指揮官が彼から離れるようにされヨシャパテ王は、死の淵から辛うじて救われました。 私たちも、自分の誤った選択のため、とんでもない状況に陥っても失望してはならないことを教えられます。 その状況で、主の言葉を求め、主の助けを叫び求める者に、主は答えてくださることを、聖書は教えます。
 2. 偶然の中に込められた神様の必然  人間の浅はかな考えで神様の御心を妨げることは出来ません。一兵卒の姿のアハブ王なのに、一人の兵士が「何げなく」放った矢がアハブ王の胸当ての継ぎ目に正確に刺さったのでした。 矢を射た兵士やアハブ王の立場からすれば、偶然のように思えますが、神様から見れば必然です。負傷したアハブ王は、敵陣から抜け出すことが出来ず、日没の頃になって神の人ミカヤの預言どおり死にました。アハブの死は、妻イゼベルにそそのかされて行った偶像礼拝と悪に染まった罪に対する神様の裁きでした。(列上2125)。 神様には偶然はなく、完全な主権と知恵をもって万物を治めておられます。私たちは、偶然の中に込められた神様の必然を見る目をもって、神様を畏れ敬いたいものです。
 
(結論) アハブ王は、策略を立て身分を隠し変装したにもかかわらず、アラムの兵士が「何げなく」放った弓がアハブに命中して戦死しました。偶然のように見えることも、すべて神様の御心の中にあります。神様の摂理は、人間の薄っぺらい策略によって損なわれることはありません。

2018年11月19日月曜日

礼拝メッセージ  2018年 11月 18日 
説教題  「遠大なスケールの神」 
聖  書  創世記 第21章1〜7節
(序論) 主がアブラハムに「あなたを大いなる国民とする」「あなたの子孫に、この地を与える」と言われたのは、75歳の時でした。(創世12章) 主のお約束は25年後に成就し始めたのです。そのお約束の一応の実現は、この章から400年後のイスラエルのカナン入国の時であり、その完全な実現は、主キリストの再臨の時です。これが主のお約束というものです。

(本論) 1. 主は真実なお方 約束を成就されるお方  主はサラから生まれ出る子によってアブラハムを祝福する、と約束されていました。その約束どおり、アブラハムとサラにイサクを与えられました。アブラハム100歳、サラ90歳の時でした。人間の常識には不可能と思われても、主は真実なお方です。必ずそのお約束を成就してくださいます。神様の約束は、私たちの状況に基づいて語られるものではありません。神様の全能に基づいて語られるものです。その神様を信じ、その神様の約束をただひたすらに待ち望んで、み言葉に生きるところに、私たちの信仰生活があります。
「主にとって不可能なことがありましょうか」(創18:14)
 2. 主は悩み苦しむ声を聞いてくださるお方  9節~18節で、アブラハムとエジプトの女奴隷との子イシマエルの叫びを聞かれたことを見ます。 イシマエルは、イサクより自分が年上だし、同じアブラハムの子だというので、なれなれしさがあったのでしょう。それには女主人サラを見下げていた女奴隷であった母ハガルの姿勢が影響していたのでしょう。(創16:4) 人間的な馴れ合いから、神様の秩序を軽んじやすい性質は私たちにもあります。それゆえに、跡取りのイサクの尊厳を守るために、ハガルとイシマエルは追われ、荒野でさまよい水が尽き、野たれ死にしそうになりました。その時主は、ハガルとイシマエルが泣いている声を聞いて、井戸を与え「わたしは、あの子を大いなる国民とする」と約束してくださいました。 主は悩み苦しむ声を聞いてくださるお方です。女主人サラと跡取りイサクを見下げ嘲り笑っていたハガルとイシマエルに対してさえも。
 
(結論) 主がアブラハムに「あなたを大いなる国民とする」「あなたの子孫に、この地を与える」と言われて25年目にイサク誕生、400年後にカナン入国、神様は遠大なスケールを持って計画されています。見える可能性でなく、神様のみ言葉を信じ約束を霊の目で見て霊の耳を傾け、望みに生かされていきましょう。

2018年11月11日日曜日

礼拝メッセージ  2018年 11月 11日 
説教題  「絶望の中で希望」 
聖  書  創世記 第39章17〜23節
序論) ヨセフ物語は、感動的な短編小説のようです。兄たちによって売り飛ばされたヨセフは、エジプトでパロ王の侍従長に買われ彼の奴隷となりました。しかし、主が共におられ彼のすることすべて成功させられたので、主人は、彼に全財産を任せました。ところが、主人の妻が彼を誘惑しました。彼は誘惑を退けましたが、怒った妻は、逆にヨセフが自分を襲ったといい、怒った主人はヨセフを王の監獄に入れました。
 
(本論)1.助け主なる神  神様は危機の時に、最も大きな助けを与え、避け所の岩となってくださいます。 兄弟たちに憎まれ、奴隷商人に売られ、見ず知らずのエジプトに来て、やっと芽が出たと思ったとたん投獄とは、まったくヨセフは気の毒な人に思えます。しかし、この章を読んでいくと、「主がヨセフと共におられたので」という言葉がたびたび出てくるのに気づきます。この物語の筆者は、この悲劇の出来事を通してこの言葉を強調しているようです。ヨセフは、この不条理な出来事の中でも、誠実な生き方をしています。私は、このヨセフの姿が大好きです。また、ことあるごとに、生きる手本にしていこうと心がけています。「主が共におられる」ということは、ヨセフ「神様と共にいた」ということであり、「神様を畏れて生きた」ということではないでしょうか。そのような者に、神は助けを与え避け所となってくださいます。(詩篇46.1
2.苦難の目的  ヨセフは、ぬれぎぬを着せられ、牢獄の中に投げ入れられます。何度もそんなことの繰り返しで、神様はどこに行ってしまわれたのかと、腹の底に憎しみを持ってもよさそうな内容です。ヨセフはその状況の中でも、神を畏れ、誠実に歩みました。最後はどうなったでしょうか。彼はエジプトの総理大臣になりました。自分を奴隷商人に売った兄たちが頭を下げて「どうぞ、穀物や食べ物を譲ってください」とお願いしに来た時、ヨセフは感極まって泣き、「あなた達が私をエジプトに売ったのは、神様の御業なんです。家族を国民を救うために神様が派遣されたのです」と兄たちに打ち明けました。
 
(結論) クリスチャンにとって、苦難は、神様の別の形での愛の表現です。私たちが受ける苦難は、神様の愛の中で許されたものであり、その苦難は、私たちをきよめ、鍛錬し、ついには義にいたらせます。 苦難を通して「みおしえ」を教えられる者は幸いです。

2018年11月5日月曜日

礼拝メッセージ  2018年 11月 4日 
説教題  「恵み・のがれの町」 
聖  書  民数記 第35章9〜15節
(序論) のがれの町は、誤って人を殺した者が、公正な裁判を受ける時まで守られる場所です。この「のがれの町」は、各部族から出来るだけ早く行ける場所に定められました。この恩恵は、イスラエル人だけでなく、在留異国人であっても、イスラエルに住む者が誤って人を殺した場合、そこに行って保護を受けることが出来ました。
(本論) 1. いのちの尊さと人間の弱さへの神様の配慮  「目には目を、歯には歯を」という報復律は、人が誰かを傷つけた場合、その罰は同程度のもの、もしくは相当の代価を払うことで、これは過度の報復を防ぐための教えです。人を殺した者に対しては、殺された者の近親者が復讐をすることが許されていました。のがれの町に入った者は、裁判によってその殺人が故意のものでなかったことが明らかにされるなら、大祭司が生きている間、のがれの町で安全に住まうことが出来ました。しかし、自分勝手に町から出れば報復を受けました。今の大祭司はイエスキリストです。主のみ手を離れれば我々は命を失います。神様は命の尊さと、人間の不完全さ弱さのゆえにあわれみ、のがれの町を制定されました。
2.我らの避け所はキリスト  のがれの町の律法は、私たちに霊的な光を与えています。のがれの町は、罪人の避け所ですが、私たちの避け所は、キリストです。「神は我らの避け所…」(詩篇46篇1節)。 神様は罪を犯す人間を、愛とあわれみのゆえに、のがれ所としてキリストを天より下されました。罪人がキリストの中にのがれ、その翼の陰に隠れればその罪が許される道を開かれました。「キリスト・イエスにある者は、罪に定められることがない」(ローマ8章1節)。この中にいなければなりません。この中から出てはいけない、という霊的な意味をもっています。
(結論) 主は私たちに、「のがれの町へ行け、そこから出るな。」と言っておられます。今日、我々は罪の赦しを宣言される教会から離れてはいけない者と、心に深く刻み従って行きましょう。
 祈り 「わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。わたしにつながっていれば、実を結ぶ」とのイエス様の教えに従います。弱い私を支えあわれんでください。

2018年10月29日月曜日

礼拝メッセージ  2018年 10月 28日 
説教題  「人生で最も危険な時」 
聖  書  歴代志上 第21章1〜6節
(序論) サタンはイスラエル人を打とうと、ダビデを誘い込んで人口を数えさせます。ダビデの人口調査が罪となった理由は、その根底に神様を無視する「おごり」が隠れていたからです。主だけに信頼しなければならないのに、ダビデは自分の力を誇ろうとしたのです。   
 (本論) 1. 恵みを忘れた高慢  ダビデは、治世の晩年に、イスラエルの人口調査を命じました。歴代志の著者は「サタンが」彼を誘い込んだと記し、サムエル記の著者は、「主が」ダビデを打とうとして彼を動かしたと記しています。(サムエル記下241
そのため、この出来事は、神様の主権的な許しの中で、サタンが高慢になったダビデを誘い込んで罪を犯すように導いたと見ることが出来ます。 「サタン」は「敵対者」を意味し、「誘い込む」は「扇動する、誘惑する」という意味です。
 人口調査が罪である理由は、「剣を使う者」(5節)、つまり兵力を数えてダビデ王朝の力を誇ろうとしたためです。ダビデが戦いで勝利を重ね、彼の王座が堅く立てられたのは、すべて神様の主権的な恵みです。神様の恵みを忘れて、自分の功績を誇ることは高慢な態度です。高慢ゆえに恵みは懲らしめに変わります。 
2. 悔い改めたダビデ  ダビデの高慢な心を見抜かれた神は、ダビデの人口調査を悪とみなされました。神様は懲らしめとしてイスラエルを打たれます。王の過ちが民を危機へと追い込んだのです。神様の懲らしめが下ると、ダビデはようやく神の前に大きな罪であることを悟り、自分の愚かさを告白しました。「愚か」とは、「道徳的、霊的に愚か」であるという意味です。神様の懲らしめの理由は、正しい道に立ち返らせるためであり、罪の代価を払わせる理由は、その罪の重みを忘れないようにするためだす。
(結論) ダビデは成功の頂点で芽生えた高慢の芽に気が付きませんでした。プライドで心が遮られて、周りの忠告も聞かず、自分の考えを主張して神様に罪を犯しました。私は祈ります。神様の懲らしめの前で心から悔い改めますから、大いなるあなたのあわれみをもって罪の赦しと恵みを私にお与えください。

2018年10月16日火曜日

礼拝メッセージ  2018年 10月 14日 
奨  励  村上幸康兄
奨励 題  「神の選び(力の源泉)」 
聖  書  士師記 第14篇1〜4節
(序論)  指導者ヨシュアが死んで久しくなり、主がイスラエルの為に行われた業を知らない人々が増え、イスラエルの人々は、真の神を離れ、偶像に仕え主の前に悪を行いました。ゆえに主は怒られ、かすめ奪う周囲の敵の手に民を渡し、イスラエルを悩ませられました。イスラエルの人々はひどく悩み、主に守りと助けを求めました。主は、さばきづかさを起こして、彼らを救い出されました。
 
(本論) 士師記には、神により救国者(士師)が12人起こされたとあり、12番目がサムソンです。
ダンの部族にマノアという人がいて、その妻はうまずめで子どもを産んだことのない人でした。そこへみ使いが現れて「あなたは男の子を産むでしょう。あなたは気を付けてぶどう酒も濃い酒も飲んではいけません。汚れた物も食べてはいけません。その子が生まれたら頭にカミソリを当ててはなりません。その子は生まれた時から神に捧げられた『ナジル人』です。 彼はペリシテ人の手からイスラエルを救い始めるでしょう。」 やがて約束の男の子供が生まれ、サムソン(太陽のような人)と名付けられました。その当時イスラエルは、ペリシテ人に支配され苦しめられていました。 彼はすくすく成長して立派な若者になりました。サムソンはペリシテの町テムナに下って行って、一人の女 を見そめ父母に、「彼女をめとって私の妻にして下さい」と言うと、両親は「割礼のないペリシテの女と結婚してはいけません。イスラエルに女の人がいるではないかと言われます。しかし、サムソンは彼女が私の心にかないますからと、後に引きません。このことは、神がサムソンを用いてペリシテ人からイスラエルを救う機会を与えようとしておられたことによるのです。サムソンは怪力を神から与えられ素晴らしい働きをしましたが、彼の欠点は女性に弱いことでした。しかし、その弱点を用いて、何度も主はペリシテからイスラエルを救われました。
(結論) 神は欠点も良きに変えて用いられます。
    「私が弱い時にこそ、私は強いからである」(第2コリント12章10節)

2018年10月9日火曜日

礼拝メッセージ  2018年 10月 7日 
説教題  「主を避け所とする者」 
聖  書  詩篇 第91篇1〜10節
(序論)  この91篇は、 1.神様を信頼する者は危険より守られること 2.神様を信じ神様を愛する者に対する、神様の助けと約束、 が語られています。 詩人は、1、2節で、自分も信じていることを発表して神様を避け所とし、人にもこの信仰を持つように勧め、力づけています。神様は、敵の矢を防ぐ盾のように、また、サタンから来るすべての災いと、災害、伝染病より守られるのだから恐れるに足らない、と告白します。
 
(本論) たとえ千人万人が右手に倒れても、それはあなたには近づかない。それは、あなたが主を避け所とし、いと高き方を住まいとしたから、何も恐れることはない、という確信の告白です。これは新約聖書における「主は私の助け主である。わたしには恐れがない。人は、わたしに何ができようか」(ヘブル136)の確信の声に似ています。
 1. 恐れない理由、平安でいられる秘訣  人生の危機の中で最も安全な避け所は、神様です。神様を隠れ場とする者は、恐れません。神様への全き信頼の前に、恐れは退きます。主は契約に忠実なお方です。日々、「わが避け所、わがとりで、わたしの信頼するわが神」と主に告白する者は、11節、「み使いたちに命じて、あなたの歩むすべての道で、守られる」と聖書は語ります。
 2. 愛と信頼を持って祈り求める者  神のみ使い、主の助けにより、悪しき勢力を踏みにじり、誘惑に打ち勝つことが出来ます。苦難は、神様の臨在と御力を生き生きと経験する機会となります。神様への愛と献身そして切なる祈りは、神の御力を速やかに経験させてくれる、はしごのようなものです。愛と信頼を持って神に祈り求める者に、神様は長寿と救いの恵みを与えてくださると聖書は語ります。  
 
(結論) 世の患難は、神を愛し、信頼する者たちを決して倒すことは出来ません。苦しみの時、神様は約束通り、私たちと共にいて、苦難から救い出し、誉を与えてくださいます。私の避け所、堅固なとりで、大楯となってくださる主により頼みます。
いつも共にいて下さる主と深く交わることが出来ますように。


2018年9月25日火曜日

礼拝メッセージ  2018年 9月 23日 
説教題  「ゆだねられた所有物」 
聖  書  歴代志上 第29章10〜14節
(序論) ダビデは、全集団の目の前で、全てのもののかしらである主をほめたたえます。そして、民が神殿建築のために捧げた全てのものは神様のものであると告白し、みずから進んで捧げる力を与えて下さった神様に感謝します。
 
(本論) すべてが神様のものであることを悟った人は、感謝と賛美を捧げずにはいられません。ダビデは、神殿建築のためにみずから進んで捧げる心が与えられた事に感謝し賛美しています。
 ダビデは、一国の最高統治者ですが、力と尊厳、天と地にあるもの、そして王国も、すべては神様のものであることを告白しています。 これは、神様の前で自分は取るに足らない存在で、神様の「しもべ」にすぎないということを知っている者の告白です。 自分と民が神殿建築のために捧げたものも、本来は神様のものなので、主人である神様にお返ししたにすぎない、というダビデの告白には、管理人としての心構えが表れています。
 クリスチャンは、天の故郷を仰ぎ見て生きる旅人です。 一時的にとどまっているに過ぎないこの世に望みを置かず、また、神様からゆだねられた所有物を永遠のものと考えず、主の働きにふさわしく用いなければなりません。
 
 
(結論) 私たちは主に、精一杯の奉仕し、捧げものをしていると自負しているとしても、実は主からいただいたものを、お返ししたにすぎないことが分かります。主から受け取ったもの、健康、家族、賜物、信仰、物品、その他、これらはすべては恵みであり、また主の栄光のためにお返しできることも、恵みであることを覚えて礼拝ごとに主に感謝し、主に喜ばれることが出来るように祈ります。

2018年9月17日月曜日

礼拝メッセージ  2018年 9月 16日 
説教題  「信仰に生かされた者」 
聖  書  サムエル記下 第16章9〜12節
(序論) ダビデ王が、息子アブサロムに追われ都落ちしていく途中に、サウル家の一族の一人シメイが出て来て、ダビデとその家来の一行に石を投げ、盛んに呪いの言葉を語りました。 「出ていけ、血まみれの男、よこしまな者、主がサウルの家の全ての血をお前に報われたのだ。主がお前の息子の手に王位を渡された。お前は、血まみれの男だから災いに会うのだ」とののしりました。
 
(本論) わが子の手をのがれ、泣きながら逃げ延びているダビデにとって、このシメイの非情なののしりは、腹わたをえぐられる思いであったことでしょう。
家来のアビシャイは、このシメイの王に対する罵倒の言葉を聞き「この死に犬めが、わが王を呪ってもよいものか。私に、あの者の首をはねさせてください。」と憤りました。 主君に対する屈辱の言葉に耐えられなかったのです。
 
神への信頼、神による勝利  しかし、ダビデは家来をたしなめて言います。「これは私への言葉だ。主が彼に『ダビデを呪え』と言われたのであるならば、だれが彼に『お前は、どうしてこういうことをするのだ』と言えようか。 彼に呪わせておけ、主が彼に命じられたのだから。 たぶん、主は私の心をご覧になり、主は、きょうの彼の呪いに代えて、私に善を報いてくださるかも知れない」
 人生には、誤解や中傷がよくあります。 その時私たちは、なんとか早く解消しようと焦ったり、怒りちらしたり、相手に危害を加えたりしやすいものです。
 哀歌3章3032節に「自分を打つ者に頬を与え、十分そしりを受けよ。主は、いつまでも見放してはおられない。たとい悩みを受けても、主は、その豊かな恵みによって、あわれんで下さる」と、涙の預言者エレミヤがうたっています。
神様を信頼する者、神様による勝利を願う者だけが、耐えることが出来ます。
 そして、そのような者を神様は、哀れんでくださいます。
 
 
(結論) マーティン・ルーサー・キングの言葉に、「我々を打って半殺しにするがいい、それでも我々はあなたがたを愛するだろう。 しかし、我々は耐え忍ぶ能力によって、あなたがたを摩滅させることを、はっきり覚えておくがいい」 「私には夢がある。…奴隷の子と奴隷所有者の子孫が、同じテーブルにつくという夢が」。
キング牧師の言葉は、信仰に生かされた者の、我々への力強い証言です。

2018年9月9日日曜日

礼拝メッセージ  2018年 9月 9日 
説教題  「神の言葉を聞き」 
聖  書  歴代志上 第22章11〜13節
(序論) 主はダビデに、主の宮を建てるのはダビデでなく、その子ソロモンであると告げられました。ダビデは自ら主の宮を建てることは断念しましたが、主の宮を建てたいとの願いは切実で、ダビデは可能な限りの準備をしました。
 
(本論) ダビデは多くの材料を整え、その上でソロモンに向かって神意を説明し主の宮を建てるよう命じました。ダビデがソロモンに伝えたことの中で最も重要なことは、工事についての明細ではなく、主が彼と共にいて下さるからモーセの律法を忠実に守ることを勧めました。 そして、ソロモンが心を強くし、勇み、恐れず、おののかないで、主のみ前に忠実に生きることを希望しました。(13
                       
1) 信仰の困難さ ダビデは当時の世界を制覇し、その名を天下にとどろかせた彼のような人が、わが子に「心を強くし、勇め。恐れてはならない、おののいてはならない」と注意を与えたことは、信仰の戦いが、いかに厳しいものであるかを示しています。私たちは信仰を軽く考えやすいものです。信仰生活とは神様を信じて生きていくことだけではありません。神様の言葉に従って生きていくことです。ここに信仰生活の戦い厳しさがあります。
 
2) 信仰生活とは 旧約のノアは、洪水による滅亡から救われた人です。しかし、神様はその救いのために、箱舟を造ることを命じられました。長さ150メートル、幅25メートル、高さ15メートル、これだけの大きな舟を建造することは、当時個人で造ることは容易ではなかったはずです。自分の全財産を投入し、全能力を傾注しなけりばならず、片手間に出来ることではありませんでした。世の人々が、飲み食い、めとり、とつぎといった歓楽に酔いしれている中で、この神様の言葉を聞き、そしてそれに従って舟の建造に、日々明け暮れたのです。これが信仰ではなく、信仰生活と言うことです。 
 
 
(結論) ここに心を強くし、勇み、恐れず、おののかない精神が必要となります。 
民主主義がもたらす最大の災いは、民主主義です。民主主義は、独裁には勝りますが、絶対的なものではありません。私たちは、知らず知らずのうちに「大衆へのへつらい」に陥ってしまう。民意は、必ずしも神意、真理を表すものではありません。

2018年9月3日月曜日

礼拝メッセージ  2018年 9月 2日 
説教題  「現実と神の約束」 
聖  書  エズラ記 第1章1〜4節
(序論) ユダヤの民族は、バビロンのネブカデネザル王に滅ぼされ、バビロンに捕らえ移されてより70年後の、BC536年ペルシャの王クロスがバビロンを滅ぼし、ユダヤの人々は、故国に帰り神殿を再建することが出来ました。
(本論) かつてエレミヤは、エレミヤ書2910節で「主はこう言われる。バビロンで70年が満ちるならば、私は、あなた方を顧み、私の約束を果たし、あなた方をこの所に導き帰る」と預言しました。バビロンに捕らえられたユダヤの人々にとって、この預言は、あまりにも現実には遠いものと感じられたことでしょう。
1)神の約束と成就 神様は真実です。神様が約束されたことは、必ず成就します。
 70年前、誰がこの約束を予測し得たでしょうか。しかし、神様はご自身の力を持って、ご自身の約束を成就されます。たとえ人間には至難の事柄のように思えても、神様は全能者です。それゆえに必ずその約束を成就されるのです。信仰とは、それを信じて生きることです。
2)神の栄光を拝する 会堂司ヤイロは、娘の危篤の状態の中で救いを主に求めました。イエス様は彼の懇願を受け入れて彼の家に向かわれました。ところが、その途中で家から使いが来て「お嬢さんは、亡くなられました。この上、先生を煩わすには及びません」と知らせました。(ルカ849) その時主は、ヤイロに向かって「恐れることはない。ただ信じなさい」と言われました。 私達は、現実と神様の約束、一体どちらを重く見るでしょうか。娘が死んだ、と言う現実と、治してあげようと、言われた主イエス様の約束の言葉。「恐れることはない。ただ信じなさい」とは、現実よりも神様の約束の言葉に立て、と言うことです。それは、決してやさしいことではありません。 しかし、そのように生きることがイエス様を主と告白することです。ヤイロはかろうじて使者のすすめに反して、イエス様を伴って家に帰りました。そして、彼は娘を生き返らせていただき、神様の栄光を拝することが出来ました。 
(結論) 現代私たちは、神様の栄光を見ることが少ないと考えます。 神を信じていないクロスさえ「感動させて」ご自身の御心を成就され方です。 あなたの今日がどんなであろうとも、神様はすべてを用いて今日もご自身のみ旨を成し遂げられます。あなたが仰ぎ見る時、あなたの人生も神の栄光に預かります。

2018年8月24日金曜日

礼拝メッセージ  2018年 8月 19日 
説教題  「絶望の時、希望のみことば」 
聖  書  使徒行伝 第27章13〜26節
(序論) パウロたちが乗っていた船が、暴風に巻き込まれます。幾日も激しい暴風に翻弄され、助かる望みが絶たれようとしている状況で、パウロは、前日の夜に神様の御使いが現れ、自分をカイザルの前に立たせるために、同船している人々をみな、主が彼にお与えになった、と言われたことを伝え、彼らを励まします。
(本論) 1 ) 人間は無力な存在  穏やかな南風が吹いて来たので、百人隊長と船長は、自分たちが決定が正しかったと思いましたが、すぐにユーラクロンという暴風が吹き下ろして来て、危機的な状況になりました。しかも何日も続き、助かる望みすらなくなりました。 そこでパウロは、自分の勧めが正しかったことを伝え、神様の言葉の権威と霊的威厳を回復しました。 人生は、航海にたとえられます。
私達の人生の船も、暴風のような苦難に襲われることがあります。 クリスチャンは、暴風の中で絶望する人々を救いに導く使命が与えられています。
 2 ) 失望に打ち勝つ秘訣  絶望に勝利するためには、望みのみ言葉のを堅く信じることです。神様は、パウロを通して、望みが消えた絶望の場所に、希望の言葉をかけられました。み使いを通して、パウロにローマ行きのビジョンを再確認させ、一緒に航海する人々の安全を、パウロに委ねられました。パウロは、全員が失望している時、希望のみ言葉によって慰め、励ましました。 誰も希望を見いだせない時も、パウロは、「私に告げられた通りになると、私は、神によって信じています」25節と言い、自分の確固たる信仰を伝えました。 暗い現実ではなく、主の約束に目を向けることが、真の信仰であり、信仰によって周りの人を励ますことができます。
(結論) パウロの言葉は、「元気を出しなさい」という言葉で始まり、「元気を出しなさい」という言葉で終わっています。嵐の中で元気を出すことができるのは、神様の救いの約束のゆえです。人生という航海の中で暴風や難破の危機に直面するとき、神様を仰ぎ御声を聞くなら、最悪の状況でも私たちに、希望が与えられます。

2018年8月17日金曜日

礼拝メッセージ  2018年 8月 12日 
説教題  「真理の言葉を伝えたパウロ」 
聖  書  使徒行伝 第26章24~32節
(序論) フェスト総督は、パウロに「おまえは気が狂っている。博学が、おまえを狂わせている」と言います。パウロは、「私はまじめな真理を話している」と言います。フェストが、パウロに「わずかな言葉で、自分をキリスト者にしようとしている」と言うと、パウロは、皆が自分のようになってくれることを私は願う、と答えます。そして、彼は、パウロがカイザルに上訴しなければ釈放されたであろう、と言いました。
 
(本論) 1 ) パウロの願い  パウロが主に出会った神秘的な体験と、死者の復活のことを話すと、フェスト総督は、パウロに「気が狂っている」と言いました。しかし、パウロは、真理の言葉を話したのです。 世の人々は、尊いものを手に入れると、自分だけでそれを楽しもうと隠しておきます。しかし、クリスチャンは、そうではありません。 何ものとも比べられない、尊い宝であるイエス・キリストを知ったなら喜びがあふれ出て、他の人々に伝えたくなります。パウロは、福音を聞く全ての人が、自分のようになることを神様に願う、と言いました。
 パウロのように、あなたは周囲の人に、自分のようなクリスチャンになるよう、自信を持って勧めることが出来ますか。そうできないなら、それはなぜですか。
2 ) 神様のご計画と人の思い  神様の思いと人の思いとは、異なることが多いものです。パウロを尋問したアグリッパ王とフェスト総督は、パウロに罪がないと判断し、彼がカイザルに上訴したためにローマに、呼び出されることになったことを不びんに思いました。しかし、神様のご計画は、パウロがローマでも福音を証しする事でした。(23:11) パウロも、神様の御心を知っていたので、自分がローマ市民であることを主張して、カイザルに上訴したのでした。パウロは、自ら進んで投獄される道を選びました。     
 
(結論) 全ての人々が救われることを願っておられる神様は、パウロのように、どんな状況でも、福音を伝えようとする情熱を、与えてくださいます。人々から、変な人だ、と、後ろ指をさされても、クリスチャンになることこそ、最も尊く、幸いなことであると、堂々と伝えることが出来ますように、主よ、私を助けてください。

2018年8月6日月曜日

礼拝メッセージ  2018年月 5日 
説教題  「使命を受けたパウロ」 
聖  書  使徒行伝 第22章6〜11節
(序論)パウロは、クリスチャンを縛り上げて処罰するためにダマスコへ向かう途中、まばゆい光の中でイエス様の御声を聞きました。そして、目が見えない状態で手を引かれてダマスコに入りました。 12節~パウロは、アナニヤの言葉どおり再び見えるようになり、神様が自分をイエス様の証人として選ばれたことを知り、バプテスマを受けました。その後、パウロがエルサレムで祈っていると、主が現れて、急いでそこを離れるよう、また、彼を異邦人に遣わすと告げられました。
(本論) 1、 熱心さより方向性  バプテスマを受けたパウロは、信仰の証しを始めました。 この時、ギリシャ語ではなくヘブル語を用いて民族意識に訴え、自分がガマリエルのもとで学んで律法に精通した者であることを強調しました。これはユダヤ人の心を開くためです。
私たちの出身や背景は、自分を誇るためではなく、福音を伝えるために用いるべきです。神と律法に非常に熱心だったパウロは、キリストに従う人々を率先して迫害しました。熱心さよりも重要なのは方向性です。私たちは神様が喜ばれることに熱心にならなければなりません。
2、 主からの使命  17節~21節、神様は、ご自分に向かって熱心に祈る人に、喜んで御心を告げてくださいます。パウロが宮で祈っていると、主が現れ彼が行うべきことを細やかに告げられました。 主は、ユダヤ人達はパウロの言葉を受け入れないので、急いでエルサレムを離れるように命じ、異邦人に遣わす、と告げられました。 主のご計画は、いつでも私たちの計画より高く、偉大です。主のしもべは、自分の考えを明け渡し、主が命じられる所に行き、主が命じられることを行う人です。    
(結論) 祈り…日々、主のみ言葉に耳を傾け、ひざまずいて祈ります。 どこへ行って何をすべきか示してください。 そして、目的もなくさまよう人々が、主の御心を知るよう助けることが出来ますように。 主からの使命に歩み、イエス様の証人として生かさせてください。

2018年7月29日日曜日

礼拝メッセージ  2018年 7月 29日 
説教題  「愛する人からの最高の贈り物」 
聖  書  使徒行伝 第16章6〜10節
(序論)私たちクリスチャンにとって、「愛する人」とは?勿論、イエス・キリストですね。では、私たちに贈られた「最高の贈り物」とは何でしょうか?
(本論)ナザレン教団は、「きよめ」「聖化」を標榜し、ナザレン新報でも毎回「聖化へのまねき」を連載しています。聖書は、聖霊が主を信じる全ての人に与えられ、聖霊がわたしたちの内に働いて、キリストに似る者にさせて下さると記しています。
 本日の聖書では、パウロ達が聖霊によって、自分達の計画するアジア宣教が二度にわたって禁じられ、幻によりマケドニア、つまりヨーロッパへの宣教へと導かれました。これらのことから示されるのは、①聖霊は良い計画を閉ざされることがあること、②聖霊は人間の理性も用いられること、③私たちは隣人の叫びを聞いているだろうか?ということです。
 パウロを導き、今も私達を導かれる聖霊について考えてみましょう。  
1.聖霊の注がれ方は、一人ひとり違う。
2.聖霊の導きは、普段の生活の中でなされる。
3.聖霊は即刻の行動は求められない。
4.聖霊の導きに気づかなかった時、がっかりしない。
5.聖霊の導きを絶えず求め、祈り続けること。
(結論)1.聖なる神様は、私たちを聖なる生き方へと召しておられます:「わたしは聖なる者であるから、あなたたちも聖なる者となりなさい。」(レビ記11:45
2.神は、神の霊を私たちの内に宿らせ(聖化)、キリストに倣う弟子とならせ、キリストに似た者へと変容させてくださいます:「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。」(ガラテヤ2:20
3.聖霊は、ペテロやパウロ、その他の信仰深い人たちにだけ注がれるのではなく、イエス様を信じ、罪を赦された人には、誰にでもすべての人に聖霊は注がれます:「わたしの霊をすべての人に注ぐ。」(使徒行伝2:17
 私たちを愛してくださる主は、最高の贈り物「聖霊」を贈ってくださり、キリストに似るものとさせてくださいます。感謝!ハレルヤ!

2018年7月23日月曜日

礼拝メッセージ  2018年 7月 22日 
説教題  「主の励ましと約束」 
聖  書  使徒行伝 第18章9〜16節
(序論)ある夜、主が幻によってパウロに、この町には主の民がたくさんいるので、恐れず語り続けるようにと言われました。そこでパウロは、1年半そこに腰を据えて神の言葉を教え続けます。ユダヤ人たちが反抗してパウロを法定に引いて行きました。地方総督ガリオは、その訴えを受け入れずユダヤ人たちを法定から追い出しました。
 
(本論1)信仰の友 アテネを去ってコリントへ来たパウロは、アクラとプリスキラというキリスト者夫婦との出会いが起こります。(1-3)彼らはローマの教会員でしたが、ローマ皇帝のユダヤ人追放令でローマからコリントまで来た時、パウロと出会ったのでした。しかも同じ天幕作りの職を持っていたのでした。パウロはアテネでの議論による失敗にこりて、コリントでは優れた人間の知恵を用いず、ただ十字架につけられたイエス・キリストのみを伝えようと決心していました。(第一コリント2:1、2) ヨーロッパに足を踏み入れ、手さぐりしながら伝道していたパウロは、大きな勇気と力を得ました。アクラとプリスキラの家に住み込んで、天幕作りの仕事をして生活費をかせぎながら、安息日ごとにイエスはキリストであることを語りました。
2)語り続けよ。黙ってはいけない。この町にはわたしの民がたくさんいる。        
パウロはお金がないと働きながら、金が与えられるとフルタイムで、いずれにしても力いっぱい、イエス・キリストを宣べ伝えることのみに生きました。キリスト気狂(きぐる)いの歩みです。そんなパウロもユダヤ人の反抗により心が折れそうになったこともあったのでしょう。9節、主は幻によって語られました。
「恐れないで語り続けなさい。黙っているな。あなたにはわたしがついている。誰も危害を加える者はない。この町には、わたしの民がたくさんいるから」また、エリヤにも「バアルに膝をかがめなかった七千人を残しておいた」と告げて励まされました。13節から16節、主は、お言葉通りユダヤ人の謀略からパウロを守ってくださいました。
 
(結論)パウロは、素晴らしい同労者に出会いました。見知らぬ地で、自分と同業者、しかもクリスチャンに出会ったことは、パウロにとって大きな力となりました。私たちも、兄弟姉妹と力を合わせて世にイエス様のことを伝えたいものです。