2021年3月21日日曜日

礼拝メッセージ 2021年3月21日
説教題 「いのちの道・祝福の道」
  書  マタイによる福音書26章36~39節
(序論)イエス様は、ゲッセマネに入って行かれて、弟子達の中から、ペテロとゼベダイの子、すなわちヤコブとヨハネの三人を連れて、園の奥に入って行かれました。
(本論)その時、突然主は「悲しみもだえ始められた」とあります。しかも「私は悲しみのあまり死ぬほどだ」と言われました。今まで気丈に弟子たちに福音を教えられ、多くの奇跡を行いながら、ここに来て急に悲しみ悩み始められました。しかも三人の弟子の前で。一体何が起こったのでしょうか。
1)神の思いに自分の思いを従わせる  イエス様はこう祈られました。「わが父よ、もしできることでしたら、この杯をわたしから過ぎ去らせて下さい。しかし、わたしの思いのままにではなく、御心のままになさって下さい」と。この神の怒りの杯を、自分が身代わりに受けなければならいと言うことです。本来ならば罪人の私たちである人間が、受けなければならない、神の罰です。それを御自分が、受けなければならないと言うことの厳しさです。たとえそれが自分の使命だとしても、できればその苦しみの杯を飲まなくてもいい道を示して下さいと祈られました。この苦しみと孤独を経験しなくてもいいようにして下さいと願われたのです。
「御心のままに」という祈りは、この杯を受けますと言うことです。自分の思い、自分の願い、自分の願望ではなく、神様の御心のみが、なりますようにという祈りです。自分を委ね、神に明け渡す道です。たとえその道が苦しみと悲しみの道であっても、必ず神様はプラスにして下さると信じて踏み出す道です。なにがあろうとも、苦しみ、攻め、重荷、犠牲があっても、神様が望むのでしたら、その道を取りますと言うことです。逃げるのは致しませんと言うことです。この苦しみの杯を遠ざけてください、と言う願いではなく、その苦しみの中に、その苦しみを通してさえも、主はその先に、光と希望の道を備えて下さると信じる事ではないでしょうか。
 
2)祈りは、大胆に立ち向かう力  それから、弟子たちのところへ戻ってご覧になると、彼らは眠っていたので、ペテロに言われた。「あなたがたは、わずか一時もわたしと一緒に目を覚ましておられなかったのか。誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えていても肉体は弱い。」 彼らは、わずか一時も目を覚ましていられませんでした。と言うことは、おそらくすぐに寝込んでしまって、イエス様が祈っておられる間中彼らは、ぐっすりと寝ていたと言うことです。誘惑に負けてしまっていました。しかも三回もイエス様が戻って来て起こしたにもかかわらず、三回とも眠ってしまっていたのです。何ともふがいのない弟子たちでした。「心は燃えていても肉体は弱い」とありますので、信仰はありました。ところが肉の力が強くても、心の方が負けてしまうのです。
(結論)しかしイエス様は、ご自分を捕らえに来る人々を堂々と迎えられます。祈りは試みに対して、大胆に立ち向かう力を与えます。

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